藤原正彦の管見妄語
天が突きつけた踏絵
メルケル首相が難民の大量受け入れを発表して以来、シリアなどからおびただしい数の難民がドイツに向かっている。
最初にたどりつくEU国家、地中海コースでのイタリアとギリシア、バルカン半島コースでのハンガリーなどは毎月10万を超す難民に悲鳴をあげている。
難民の40%ほどはコソボ、セルビア、アルバニアなどバルカン半島の人々と言われる。
また全体の過半数は単に仕事を求めての移民らしい。
EUで最も経済的に安定したドイツが歓迎してくれる、というのだから人々が押し寄せるのは当然だ。
ドイツ政府は80万人を引き受けると発表している。
ドイツ産業界も歓迎の意向だ。
それ位の労働力が不足しているからだ。
シリア難民の多くは教育を受けていて英語も話せるから、良質で安価な労働力と見ているのだろう。
メルケル首相の歓迎発言は人道の模範として世界中の喝采を浴びた。
指導者の力強い言葉になぜか酔いやすいドイツ国民は、ミュンヘン駅にたどり着いた難民を拍手や歓声で迎え、至れり尽くせりのもてなしをした。
メルケル首相の思い切った決断には三つの理由が考えられる。
第一は、先の対戦中にユダヤ民族抹殺に手を染めたドイツにとって、難民保護は贖罪であり義務と思っていることだ。
第二は少子化による労働力不足の穴埋め、第三は首相自身の、祖父がポーランド人、祖母がスラブ系少数民族のカシューブ人という、移民としての出自であろう。
しかしながら流入する難民が今年だけで百万を超すと予想されると、人道に高揚し自己陶酔していたドイツ人も変化してきた。
引き受ける州や自治体の巨大な財政負担、ドイツ人労働者の賃金低下、イスラム教徒の大量出現による社会の混乱や、ドイツ語を離せない青少年を大量に受け入れる教育現場の困難などに想到したのである。
人道という霧の向こうに現実が姿を現し始めた。
与党内からも批判が出てきた。
メルケル首相は批判に対し「(難民受け入れを国民に)謝罪しなければならないような国は私の祖国ではない」「政治難民の受け入れに上限はない」と大見得を切った。
世界はまたしても大拍手だ。
冷静に考えると、人口8千万人のドイツが毎年百万人の難民を受け入れるのは不可能だ。
シリアやエジプトやリビアには今も数千万人の実質難民がいるし、中東とアフリカ全体では数億人に達するだろう。
メルケル首相がいかに高邁な理想を掲げようとこれだけの人を入れたらドイツどころかヨーロッパが潰れる。
さすがのドイツもEU発足時に廃止された国境での検問を急遽復活させた。
ただでさえ難民が渋滞して困っているEU各国はドイツに分担して引き受けろとも言われ怒り心頭だ。
EUが瓦解する恐れさえある。
これら難民がドイツに定住できたとしても、幸せが待っているわけではない。
1960年代にドイツへ来た百数十万のトルコ移民を見れば大体の見当がつく。
下級労働者として社会の底辺で貧困層を形成している。
犯罪に走るものも多くなるからますます差別される。
すでに大多数はドイツで生まれ育った人々で、トルコ語もままならず故国にさえ戻れない。
折からドイツ最大の自動車メーカーVWの悪質な排ガス不正問題が表に出た。
VWは各国からの厳しい制裁金、VW車の所有者による損害賠償請求、株主訴訟などで数兆円を払わされ売行きも激減するだろう。
7人に1人が自動車産業に就くドイツ経済にとって最大の試練だ。
労働力不足も一気に軽減するだろう。
メルケル首相の進む道は二つ。
第一はあくまで人道の高い理想を貫くことだ。
この場合は、人道でドイツ民族を滅ぼした宰相として世界史に名を残す、あるいはそうなる前に政権から放り出され軽挙妄動の人と記憶される。
第二は経済を優先し受け入れを中止することだ。
この場合は巧言令色の偽善者の烙印を押される。
天は人道の人にVWという踏絵を突きつけた。
170723 明日はお別れの日
ソニーインテグレートステレオアンプ TA-F555ESA
平成5年 1993年4月25日に我が家にやってきた。
爾来、今日まで実に24年間、嬉しいときも悲しい時もいつも一緒だった。
数年前から体調を崩していた。
まず、パイロットランプが点かなくなった。
ポリュームを回すとガリガリと音が出るようになった。
マッサージやストレッチをしたのだけれど、完治には至らなかった。
SOURCE DIRECTにしないとぐずるようになった。
そしていよいよ終末期を迎えた。
まっすぐに歩けないようになったのだ。
右に左にふらふらとよろめいて、もう、休ませてくださいって言っているようだった。
弱ったり壊れたパーツを交換すればまだまだ働けるようになるのに、医者はもう手の施しようがないと、さっさと匙を投げた。
明日、役目を終えたものたちのところへ向かう車が来る。
170722 難民だらけ日本
変見自在 高山正之
難民だらけ日本
テレ朝に出ていた元共同通信記者青木理が「難民に冷淡なエセ積極的平和主義」という一文をどこかのオピニオン誌に載せた。
欧米諸国は曲がりなりにも人道主義に沿って中東からの難民を受け入れているではないか。
「翻ってわが日本」の安倍政権はどうか。
人権、人道を語りながら難民に冷たく何もやっていない。
「昨年は5000人の難民申請に対して認可したのはたった11人」じゃないか。
共同通信ではソウル特派員もやった。
植村隆と同じくらい偉い人らしいが、それにしてはやたら罵り言葉が多い。
それに日本は難民問題に「全く無策」とかあまりに無知が過ぎる。
日本はその昔から難民の天国だった。
彼が駐在した朝鮮半島からはもう嫌になるほどの難民、それも自分の祖国では望めない人間らしい暮らしを求めた経済難民がぞろぞろきている。
始まりは1910年の日韓併合だった。
あのころの朝鮮はパプアと同じくらい未開で、荷車1台、染物屋1軒なかった。
資源ももちろんない。
でも日本は植民地にしないで内鮮一体、つまり今のEUと同じに国境を外し、日本人と同等に扱った。
結果、ぞろぞろ200万が日本にやってきた。
中東難民とそっくりだ。
おまけに中東人と違って感謝の気持ちもなく、心も邪だったことを関東大震災の時に示した。
あのとき地震に伴う火災は浅草、本所など下町に集中した。
ところがそのあと火の気のない越中島が燃え、さらに内幸町や金杉橋、千住などで1日遅れの出火というか不審火が続き「暴徒が略奪と殺戮をほしいままにした」「何人かは鼻を削がれていた」(加藤康男『「朝鮮人虐殺」はなかった!』)。
日本の歴史に徒党を組んだ火事場泥棒はいなかった。
「鼻を削ぐ」風習もない。
何より暴れた朝鮮人が多く捕まってもいる。
戦後の在日の行動を引用するまでもない、彼らは決して性質のいい難民ではなかった。
それでも日本は内鮮一体をやめなかった。
日本人さえ我慢すればいい。
戦後も彼らは気ままに日本にやってきた。
太陽光パネルで儲けた孫正義の父も在日特権を知って戦後にやってきた一人だ。
李承晩は赤い済州島を嫌って島民皆殺しにでると数万人が日本に逃げた。
日本は黙って受け入れてやって、彼らは生き延びた。
200万を超えた在日はマッカーサーが半分以上を追い返し、朝日新聞も「北朝鮮は地上の天国」と書きさらに10万を送り返した。
それでも韓国からの経済難民、不法入国者は後を絶たない。
支那も同じ。
最初はベトナムのボートピープルを装って福建から漕ぎ出し、日本に流れ着き、居座った。
今の主流は残留孤児や帰化支那人の親族を装って潜り込む。
その数は在日を上回る。
日本で暮らせることを感謝もしないで犯罪に勤しみ、刑務所収監者数では在日と常にトッブをきそっている。
日本は世界のどこもが入れなかったユダヤ難民まで受け入れた。
日本本土はもちろん満州国にも、上海の日本人租界にも入れた。
上海に入ったユダヤ人は3万人近い。
のちにカーター政権の財務長官になったブルメンソールもその一人だった。
ドイツはヨセフ・マイジンガーを派遣し、ユダヤ人を廃船に詰め、長江に沈めろと命じた。
日本は彼を諌め、真人間になれと言った。
しかしユダヤ人も朝鮮人と変わらなかった。
日本に逃れたレオ・シロタの娘は日本を「女性の権利を無視した野蛮国」と言った。
ブルメンソールは日本に円高を迫って恥なかった。
この春には思い出の上海を訪れて「私はここで支那人ともども侵略者日本の蛮行を目撃したと語った」と聯合ニュースが伝えた。
それでも日本人は黙って今も300万近い難民を抱えている。
日本はまた長い間、米国を除く国連安保理常任理事国の合計より多い分担金を払って難民救済をバックアップしてきた。
元共同通信記者はそれも知らない。
’15.10.15 の週刊新潮より