'15/8/15の道新こども新聞「週刊まなぶん」の記事から
戦争 日本兵たちは 中国・華北
日本軍は1937年7月に中国との全面戦争を始めました。
北部の華北地域では、住民を味方につけた共産党の軍隊「八路軍」の攻撃に苦しむようになります。
日本軍は八路軍に協力する人が多いと考えた集落を激しく攻撃。
多くの住民がまきこまれてなくなりました。
家族を殺された人たちのいかりは今も消えていません。
住民多くまきこまれ 「三光作戦」で激しく攻撃
91歳・稲葉績さんー「人はかんたんに鬼に変わる」
八路軍はゲリラ組織を華北の各地につくって、日本軍を待ちぶせしたり、とつぜんおそったりといった攻撃をくり返しました。
ゲリラというのは正式な兵士ではなく、ふだんは他の住民と同じようにくらしています。
ゲリラとその他の住民の見分けがつきにくく、日本軍が住民みんなを敵とみなしたことから、たくさんの中国人が殺されたといわれています。
中国側は日本軍の攻撃を「三光作戦」とよびました。
「殺しつくし、うばいつくし、焼きつくす」という意味です。
記者は河北省の北田童村をたずねました。
この村で日本軍は42年5月、兵士や住民がにげこんだ地下道に、けむりを出す器具「発煙筒」を投入しました。
当時、住民たちは日本軍の攻撃をさけるために長い地下道をほっていたのです。
中国側は、ただのけむりではなく毒ガスだったと言っていて、日本の元兵士の中にもそれをみとめている人もいます。
なくなった人は、日本側の記録では300人ですが、中国側では千人以上ともいわれています。
李慶祥さん(88)は8歳の妹などきょうだい4人をなくしました。
「あの日のことは思い出したくない」と言いながら、手を引いてともににげていた妹がたおれ、そのまま死んでしまったことを話してくれました。
李欣友さん(79)も父親など家族6人が殺されました。
生き残ったお姉さんはショックで心の病気になったそうです。
約3キロ離れた大王耨村でも、37年12月に100人以上がなくなったそうです。
二つの村には、今でも日本をゆるせないと思っている人がいました。
劉秀花さん(83)は「あんなひどい目にあわせた日本人がどうしてまたここに来るのか」と強い口調で言いました。
中国に行った日本の元兵士の人たちにも話を聞きました。
今年1月に101歳でなくなった神奈川県茅ヶ崎市の絵鳩毅さんは、まだ元気だった去年の11月、山東省で中国人の捕虜4人を殺した体験を話してくれました。
申しわけないことをしたという気持ちから、ずっとわすれることができなかったそうです。 さいたま市の稲葉績さん(91)は山西省で村に出かけては、食べ物などを無理やりうばったり、家を焼いたりしたそうです。
「人間はかんたんに鬼に変わる。二度と戦争をしてはいけない」と声をしぼり出しました。
どうして日本は中国と戦争を始めたのか
'15/08/15 戦争 日本兵たちは 中国・華北