藤原正彦の管見妄語
救われない談話
イギリスで活躍する作家カズオ・イシグロの「白熱教室」をテレビで視聴した。
学生を前に自作や小説論を語ったが、一流作家ならではの言葉の力を感じた。
中で彼は挿話としてドゴール将軍に触れた。
第二次大戦中、ドイツ軍に占領されたフランスでは、愛国者やユダヤ人や共産主義者によるレジスタンス運動が盛んだったが、一方で多くのフランス人がナチスの協力者となり、レジスタンス闘士をナチスに密告した。
どの村にもそんな者がいて、村人は皆、誰がどうやって闘士をナチスに売ったか知っていた。
ロンドンで自由フランス政府を率い母国でのレジスタンス運動を指揮していたド・ゴールは、終戦後に帰国するや一つの話を創った。
全フランス国民がナチスに対し勇敢に戦ったというストーリーである。
日占領時の苦衷の記憶を払拭しない限り、フランスは瓦解すると考えたのである。
今も多くのフランス人はこのストーリーを信じている。
個人においても社会においても、辛い記憶をいつ忘れいつ思い出すかは複雑な永遠の課題という話だった。
戦後70年を記念して安倍首相は談話を出すという。
50年の村山談話と60年の小泉談話にはほぼ同文で「植民地支配と侵略に対する痛切な反省と心からのお詫び」が含まれていたが、今回も入るかが焦点だ。
国論は入れろ入れるなで二分され、中韓は例によって入れろの連呼、アメリカの政府高官までが入れることを期待する声明、と騒がしい。
中韓は、良心の強い日本人は罪の意識を再認識する度に怯むから様々の外交交渉で優位に立てる、と損得計算から言うにすぎない。
問題は軍事上の無二の盟友アメリカだ。
反省と謝罪を入れることは、GHQの創った極東裁判史観、すなわち前大戦は「ファシズム」対「民主主義」の戦いであり、二発の原爆は世界制覇を狙う残忍な日本軍のアジア侵略を早期に阻止するために不可欠、という筋書きを認めることだ。
無辜の民20万人を瞬時に殺戮しつくす,という古今未曾有の犯罪を正当化する必要のあったアメリカによる、ドゴール的ストーリーなのだ。
さらにそれは、日本を自らの力で自国すら守れないようにすることで属国とする、というアメリカに最大の利益をもたらしてきた戦後体制、の正当性を支える柱でもある。
中韓の損得計算とは異なり本質的だから、アメリカは今後もずっと日本に反省と謝罪を求め続けることになる。
安倍首相の本音は予てから「戦後体制からの脱却」である。
これはGHQ史観からの脱却と同等である。
日本人は歴史的に見ても平和愛好にかけてどの国にも負けない、誰もが前の戦争を深く反省している、ただあまりにも一方的なアメリカのストーリーにうなだれてばかりいては力強い発展はままならない、と首相は考えているはずだ。
アメリカが親米的な安倍首相に対しかくも神経を尖らせるのはこのためだ。
村山談話は、内容はともかく、半世紀の節目として出してよいタイミングだったが、小泉談話は不要だったし今回も同様だ。
何のために出すのか皆目分からない。
曖昧な内容のものになろうが、それでは国内右派から失望を表明され、国内左派と中韓からは激しく批判される。
欧米からも歴史修正主義者と批判されかねず、少なくとも落胆を表明される。
戦後体制とは戦勝国体制であり、世界の主役は未だに戦勝国の米英仏露中なのだ。
だからこそGHQ史観への挑戦どころか精査すら世界は許そうとしない。
全ての戦争責任をナチスに転嫁した上で反省している敗戦国ドイツも、日本を強く批判することで自国の反省ぶりを世界に印象付けようとするはずだ。
この談話はどちらに転んでも救われない。
そもそも、世界にはこれまでに数多く戦争がありながら、何故に第二次大戦後の日本だけが10年ごとに反省と謝罪を、というより談話を出さねばならないのか。
実に不思議である。
週刊新潮 2015.08.06号から