変見自在 高山正之
長崎の意味
ヒットラーはチェコを併合するとすぐボヘミアのウラン鉱山を押さえ、閃ウラン鉱の輸出を禁じた。
それは彼がウラン型核爆弾の製造に乗り出したことを仄めかしていた。
ユダヤ系の核物理学者レオ・シラードはアインシュタインと一緒に核兵器開発で遅れをとらないよう、米大統領ルーズベルトに手紙を出した。
独のポーランド侵攻の直前のことだった。
大統領は忠告に従い核開発をこなせるユダヤ人学者を掻き集めさせた。
そして真珠湾のあと、集めた2000人の学者をニューメキシコ州ロスアラモスに送り込んで原爆作りを始めた。
世にいうマンハッタン計画だ。
しかし高性能火薬のエネルギーでウランに核分裂連鎖を生み出せるかどうかは全く未知の領域だった。
テキサス大准教授マイケル・スタフの「核の時代への記録」によると、研究はまず絶対に帯電しないベリリウム製の工作道具の製造から始まったという。
静電気で高性能火薬が爆発していたら物理学者が何人いても足りなくなる。
ウランにわずか0.7%しかない核分裂を起こすU235の濃縮も大仕事で、43年秋にオークリッジにやっとその施設が作られた。
ウランに代わるプルトニウムの有効性も分かってきてハンフォードでそのための原子炉が同じころに稼働を始めた。
核爆弾は2タイプが想定された。
一つは濃縮ウランの塊を筒の両端に置き、高性能火薬で塊を真ん中でぶつける方式。
もう一つは中心にプルトニウムを置いてそれを包む高性能火薬を内側に向けて爆発させるインプロージョン型だ。
しかしこの火薬の同時爆発が難しい。
当初はウラン型でさえ「100回やって3回成功すればいい方」(同)と言われた。
ところが45年春になるとこの見解ががらり変わる。
日本がソ連を通して終戦工作を始めた時期に当たる。
どう変わったかというとウラン型は「実験しなくても100%確実」に、プルトニウム型も「記念にこの目で成果を見てみたい」に変わる。
実験は戦場でいい。
早くしないと肝心の実験場、日本が降伏してしまうと言っているように聞こえる。
そしてポツダムに連合国軍首脳が集まる直前の7月16日、アラモゴルドでプルトニウム型が実験された。
「小さな弟は兄と同じくらい丈夫だった」という成功を知らせる暗号がトルーマンの許に届けられた。
彼は向かいに座ったスターリンに「ソ連が望むトルコ進駐はお断りだ。オーストリアも同じだ」と言い放った。
同席したチャーチルも吃驚するくらいの高飛車だった。
トルーマンはその3か月前、ルーズベルトの突然の死で大統領になった。
副大統領だった彼はそれまでの1年間でたった8回しか大統領に会っていなかった。
風船より軽く扱われてきた。
彼の就任時に彼を知る外交官は一人もいなかったという伝説もある。
スターリンもそれは同じだった。
その侮りの視線を感じながらトルーマンは早く自分の偉さを世界に見せたかった。
日本が降伏を躊躇うようにポツダム宣言をアレンジした彼は7月26日「8月3日以降の天気のいい日に日本に2種類とも落とせ」と命じた。
かくてウラン型が広島に落とされ、核兵器として将来性を見込まれたプルトニウム型は3日後に長崎に落とされた。
どうしても必要な追加実験だった。
トルーマンは広島のあと「獸を扱うには獣に相応しい扱い方がある」と言った。
しかし長崎の後の大統領演説では長崎のナの字も彼は口にしなかった。
『ナガサキ』の著者スーザン・サウサードは先日のニューヨーク・タイムズに「日本の降伏を決めたのは原爆ではなかった。長崎原爆の半日前のソ連侵攻だった」と書く。
「7万市民は何のために殺されたのか」と。
今年のナガサキ原爆忌にディズニー・ジャパンは「なんでもない日おめでとう」とツイートした。
正直な米国人らしいメッセージだった。
’15.9.17の週刊新潮より