変見自在 高山正之
安倍談話
戦後70年に出された安倍談話は実に奥が深いという人が多い。
例えば締めの「我が国は自由、民主主義、人権といった基本的価値を共有する国々と手を携えていく」というくだり。
これはどう読んでも人権など糞くらえ、チベット、ウイグルを侵略して一向に恥じない支那とは付き合わないと宣言している。
そう言えば外務省は先日、韓国の基礎データから「基本的価値観を共有する」という部分を削除した。
支那だけじゃない、韓国とも絶縁すると談話は言っている。
地域問題では苦難の歴史を刻んだアジア諸国として「インドネシア、フィリピン」に続いて「台湾」を挙げた。
台湾を国扱いすると大騒ぎする国がある。
今年1月、米ハーバード大で行われた模擬国連会議で「台湾を国名扱いした」と支那人学生が騒ぎ「会場からつまみ出された」(環球時報)事件があった。
東日本大震災2周年の追悼式で台湾代表が各国代表と同格で献花した。
その前年はあの民主党政権が仕切り、支那に気兼ねして台湾代表を献花の列から外した。
政権も変わった。
やっとまともになったと思ったら支那外交部のあの高慢な華春瑩が顎を突き出して「許さない」と怒った。
今度は閣議決定付きの首相談話。
そこで語られた「台湾」はぐんと重みを増したけれど、華春瑩のキンキン声は聞こえてこない。
「手を携えない」絶縁宣言と併せて予想を超えた文言にどう対応したらいいのか戸惑っているのだろう。
それ以上に安倍談話の神髄は書き出しにある。
過去の談話は真っ暗な舞台中央に日本がスポットを浴びて立ち「私は国策を誤り、アジア諸国を侵略し植民地化し、人々に酷いことをしました」と告解する独り舞台が形だった。
しかし今回は舞台背景に第三世界が広がり、そこを欧米列強が食い荒らすシルエットが映し出される。
そして花道から日本が登場し、舞台中央で極悪欧米の代表ロシアを完膚ないまでに叩きのめした。
それが「植民地支配下にあった人々を勇気づける」ことになる。
しかし欧米に反省はない。
現に米国は日露戦争の2年前までフィリピンで住民を殺しまくり、生粋のスペイン人マニュエル・ケソンを傀儡大統領に据えて植民地支配を継続していた。
談話は大恐慌後の世界に触れる。
「欧米諸国」が植民地の膨大な労働力と資源を足場に排他的経済圏を維持するという「新しい国際秩序」を創っていった。
日本はその白人のための「国際秩序に挑戦し」「酷寒の、あるいは灼熱の異教の地」まで出て戦ったけれど敗れてしまった。
歴史とは多くの国々のエゴで織りなされる。
独り舞台でなく、そういう群像を舞台に置くことで歴史はよく見えてくると安倍談話は言っている。
元駐日英大使ヒュー・コータッチもそう読んだ。
彼は激怒した。
「日露戦争が植民地の民を勇気づけただと。とんでもない。朝鮮を植民地にし満州を取るためじゃないか」(ジャパンタイムズ8月18日)
「大恐慌の不況は日本より英米の方が酷かった。許せぬ言いがかりだ」(同)
念のために言えば英国では19世紀まで家の窓まで税金をかけた。植民地を持ってからは窓税は廃止され、ロンドン市民の半分は住込み女中を置けた。
大恐慌後も女中はいた。
しかし植民地がなくなった今、女中はいない。
英国は200年前の貧乏国に戻った。
日本が植民地の人々を勇気づけたことへの恨みは深い。
コータッチはだから怒り狂ったのだ。
朝日新聞は談話が出た翌日の社説で「何のために出したのか」と書いている。
主幹の大野博人は談話には侵略と植民地化と反省と謝罪を入れろと言ってきた。
それが正しく入っているかどうかにしか興味がなかった。
だからたぶん今もコータッチが何で怒っているのか判らない。
一度読解力テストを受けるといい。
’15.9.24の週刊新潮より