Cameraと散歩

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170722 難民だらけ日本

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変見自在 高山正之

 難民だらけ日本


テレ朝に出ていた元共同通信記者青木理が「難民に冷淡なエセ積極的平和主義」という一文をどこかのオピニオン誌に載せた。

欧米諸国は曲がりなりにも人道主義に沿って中東からの難民を受け入れているではないか。
「翻ってわが日本」の安倍政権はどうか。

人権、人道を語りながら難民に冷たく何もやっていない。

「昨年は5000人の難民申請に対して認可したのはたった11人」じゃないか。


共同通信ではソウル特派員もやった。

植村隆と同じくらい偉い人らしいが、それにしてはやたら罵り言葉が多い。

それに日本は難民問題に「全く無策」とかあまりに無知が過ぎる。



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日本はその昔から難民の天国だった。

彼が駐在した朝鮮半島からはもう嫌になるほどの難民、それも自分の祖国では望めない人間らしい暮らしを求めた経済難民がぞろぞろきている。

始まりは1910年の日韓併合だった。

あのころの朝鮮はパプアと同じくらい未開で、荷車1台、染物屋1軒なかった。

資源ももちろんない。

でも日本は植民地にしないで内鮮一体、つまり今のEUと同じに国境を外し、日本人と同等に扱った。



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結果、ぞろぞろ200万が日本にやってきた。

中東難民とそっくりだ。

おまけに中東人と違って感謝の気持ちもなく、心もよこしまだったことを関東大震災の時に示した。

あのとき地震に伴う火災は浅草、本所など下町に集中した。

ところがそのあと火の気のない越中島えっちゅうじまが燃え、さらに内幸町や金杉橋、千住などで1日遅れの出火というか不審火が続き「暴徒が略奪と殺戮をほしいままにした」「何人かは鼻を削がれていた」(加藤康男『「朝鮮人虐殺」はなかった!』)。



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日本の歴史に徒党を組んだ火事場泥棒はいなかった。

「鼻を削ぐ」風習もない。

何より暴れた朝鮮人が多く捕まってもいる。

戦後の在日の行動を引用するまでもない、彼らは決して性質たちのいい難民ではなかった。

それでも日本は内鮮一体をやめなかった。

日本人さえ我慢すればいい。


戦後も彼らは気ままに日本にやってきた。

太陽光パネルで儲けた孫正義の父も在日特権を知って戦後にやってきた一人だ。


李承晩は赤い済州島を嫌って島民皆殺しにでると数万人が日本に逃げた。

日本は黙って受け入れてやって、彼らは生き延びた。



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200万を超えた在日はマッカーサーが半分以上を追い返し、朝日新聞も「北朝鮮は地上の天国」と書きさらに10万を送り返した。

それでも韓国からの経済難民不法入国者は後を絶たない。


支那も同じ。

最初はベトナムボートピープルを装って福建から漕ぎ出し、日本に流れ着き、居座った。

今の主流は残留孤児や帰化支那人の親族を装って潜り込む。

その数は在日を上回る。

日本で暮らせることを感謝もしないで犯罪にいそしみ、刑務所収監者数では在日と常にトッブをきそっている。



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日本は世界のどこもが入れなかったユダヤ難民まで受け入れた。

日本本土はもちろん満州国にも、上海の日本人租界にも入れた。

上海に入ったユダヤ人は3万人近い。

のちにカーター政権の財務長官になったブルメンソールもその一人だった。

ドイツはヨセフ・マイジンガーを派遣し、ユダヤ人を廃船に詰め、長江に沈めろと命じた。

日本は彼を諌め、真人間になれと言った。

しかしユダヤ人も朝鮮人と変わらなかった。

日本に逃れたレオ・シロタの娘は日本を「女性の権利を無視した野蛮国」と言った。


ブルメンソールは日本に円高を迫って恥なかった。

この春には思い出の上海を訪れて「私はここで支那人ともども侵略者日本の蛮行を目撃したと語った」と聯合ニュースが伝えた。

それでも日本人は黙って今も300万近い難民を抱えている。

日本はまた長い間、米国を除く国連安保理常任理事国の合計より多い分担金を払って難民救済をバックアップしてきた。

共同通信記者はそれも知らない。




 

’15.10.15 の週刊新潮より