Cameraと散歩

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170801 天が突きつけた踏絵

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藤原正彦管見妄語

 天が突きつけた踏絵


メルケル首相が難民の大量受け入れを発表して以来、シリアなどからおびただしい数の難民がドイツに向かっている。

最初にたどりつくEU国家、地中海コースでのイタリアとギリシアバルカン半島コースでのハンガリーなどは毎月10万を超す難民に悲鳴をあげている。

難民の40%ほどはコソボセルビアアルバニアなどバルカン半島の人々と言われる。

また全体の過半数は単に仕事を求めての移民らしい。

EUで最も経済的に安定したドイツが歓迎してくれる、というのだから人々が押し寄せるのは当然だ。

ドイツ政府は80万人を引き受けると発表している。

ドイツ産業界も歓迎の意向だ。

それ位の労働力が不足しているからだ。

シリア難民の多くは教育を受けていて英語も話せるから、良質で安価な労働力と見ているのだろう。

メルケル首相の歓迎発言は人道の模範として世界中の喝采を浴びた。

指導者の力強い言葉になぜか酔いやすいドイツ国民は、ミュンヘン駅にたどり着いた難民を拍手や歓声で迎え、至れり尽くせりのもてなしをした。




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メルケル首相の思い切った決断には三つの理由が考えられる。
第一は、先の対戦中にユダヤ民族抹殺に手を染めたドイツにとって、難民保護は贖罪であり義務と思っていることだ。

第二は少子化による労働力不足の穴埋め、第三は首相自身の、祖父がポーランド人、祖母がスラブ系少数民族カシューブ人という、移民としての出自であろう。

しかしながら流入する難民が今年だけで百万を超すと予想されると、人道に高揚し自己陶酔していたドイツ人も変化してきた。

引き受ける州や自治体の巨大な財政負担、ドイツ人労働者の賃金低下、イスラム教徒の大量出現による社会の混乱や、ドイツ語を離せない青少年を大量に受け入れる教育現場の困難などに想到したのである。

人道という霧の向こうに現実が姿を現し始めた。

与党内からも批判が出てきた。

メルケル首相は批判に対し「(難民受け入れを国民に)謝罪しなければならないような国は私の祖国ではない」「政治難民の受け入れに上限はない」と大見得を切った。

世界はまたしても大拍手だ。




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冷静に考えると、人口8千万人のドイツが毎年百万人の難民を受け入れるのは不可能だ。

シリアやエジプトやリビアには今も数千万人の実質難民がいるし、中東とアフリカ全体では数億人に達するだろう。

メルケル首相がいかに高邁な理想を掲げようとこれだけの人を入れたらドイツどころかヨーロッパが潰れる。

さすがのドイツもEU発足時に廃止された国境での検問を急遽復活させた。

ただでさえ難民が渋滞して困っているEU各国はドイツに分担して引き受けろとも言われ怒り心頭だ。

EUが瓦解する恐れさえある。

これら難民がドイツに定住できたとしても、幸せが待っているわけではない。

1960年代にドイツへ来た百数十万のトルコ移民を見れば大体の見当がつく。

下級労働者として社会の底辺で貧困層を形成している。

犯罪に走るものも多くなるからますます差別される。

すでに大多数はドイツで生まれ育った人々で、トルコ語もままならず故国にさえ戻れない。




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折からドイツ最大の自動車メーカーVWの悪質な排ガス不正問題が表に出た。

VWは各国からの厳しい制裁金、VW車の所有者による損害賠償請求、株主訴訟などで数兆円を払わされ売行きも激減するだろう。

7人に1人が自動車産業に就くドイツ経済にとって最大の試練だ。

労働力不足も一気に軽減するだろう。

メルケル首相の進む道は二つ。

第一はあくまで人道の高い理想を貫くことだ。

この場合は、人道でドイツ民族を滅ぼした宰相として世界史に名を残す、あるいはそうなる前に政権から放り出され軽挙妄動の人と記憶される。

第二は経済を優先し受け入れを中止することだ。

この場合は巧言令色の偽善者の烙印を押される。

天は人道の人にVWという踏絵を突きつけた。



管見妄語 藤原正彦 週刊新潮 第60巻40号から