Cameraと散歩

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180605 惇郎の躊躇い

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変見自在 高山正之

  惇郎の躊躇ためら


サイゴンが落ちたとき「米軍が北爆を始めて10年。長い戦争だった」と深代惇郎天声人語にある。

続けて「ベトナム人同士で戦わせるため2年間、戦争を長引かせた」とも書いている。

まるで米国に悪意があったみたいに。

確かに悪い国だが、これは言いがかりが過ぎる。

米軍が撤退した後も北ベトナム軍が矛を収めなかったのには理由があった。

その答えがサイゴン陥落後にぞろぞろ出てきたボートピープルだ。

マレー、豪州へと逃げた計120万人の正体は実は華僑、つまり支那人だった。

彼らが逃げ出したわけは19世紀からの仏植民地時代に遡らねば判らない。




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その時代、フランスは街ごとに徴税事務所と阿片専売所と刑務所を建て、ベトナム人を働かせ、税金を取り、阿片を買わせた。

逆らったら牢につないだ。

アンドレ・ビオリスの「インドシナSOS」には抵抗する農民に「デボアチンが機銃掃射した」とある。

撃たれて死ねば「高い葬式税が取られた」と。

その徴税や阿片販売を華僑がやっていた。

ハノイ戦争博物館の入口に風刺画がかかっている。

最上段にフランス人がふんぞり返り、彼の足元に太った華僑が控え、その下にベトナム人官吏が鞭を振って最下段の農民たちを酷使している図だ。




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華僑は戦後フランス人が追われた後も居座って役所仕事から交易、金融まで握ってベトナム人の国を壟断ろうだんしてきた。

米軍が撤退したときベトナム人が望んだのは華僑付きの平和ではなかった。

彼らを除去するために誰にも文句を言わせない完全な勝利が必要だった。

それで「余計な2年間の戦争」があった。

完勝した北ベトナムはすべての華僑の財産を没収し始めた。

華僑は逃げ出し、支那の体裁を重んじた朝日新聞は「ボートピープル共産主義が嫌いな人たち」とか誤魔化した。

深代もそれに倣ってヘンな書き方をした。

しかし鄧小平は事実を知っているから暫らく後にベトナム懲罰の軍事行動を起こした。




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嘘の連鎖で朝日はこの中越紛争の理由も胡麻化さねばならなかった。

同じ嘘の連鎖でベトナムと日本の関係もずっといんちきを書き続けた。

最初の抗仏運動の担い手は日本に留学した東遊運動の子弟たちだが、朝日はそれも書いていない。

その一人陳中立は北部仏印進駐の際、銃撃してきた仏軍ドンダン要塞を瞬時に制圧する日本軍を目撃した。

偉そうにしてきた白人が斬られ、残りは泣いて命乞いをしていた。

陳は勇気と武器を貰って決起する。

結果は全滅だが、ベトナム人はそれを最初の抗仏戦争と呼ぶ。




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先の戦争末期、ハノイを飢饉が見舞った。

「日本軍陣地で炊き出しがあった」「雑貨商の日本人女将がお握りを振る舞った。戦後、仏人の店がみな焼かれたがこの店は襲われなかった」と同盟通信小山特派員が伝える。

抗仏の民兵は日本軍の「イチニッ」を意味する「モツハイ」と名乗った。

帰ってきた仏軍は日本兵を基地の歩哨に立たせだがモツハイはその足元を抜けて白人たちを襲った。

「その間、日本兵はただ空を見上げていた」とマウントバッテンは記録する。

ベトナム人と日本人が心を通わせていた。

互いに命を預け合うほど信頼し合っていたことに感嘆していた。




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朝日が「戦後70年/南方からの視線」でこのベトナムと日本のかかわりを取り上げていた。

ただ中身はハノイの飢餓だけ。

「日本軍がコメを強制買い上げした」(佐々木学記者)ために起きたと嘘を書き、日本軍は酷かったとベトナム人に語らせる。

この話は倉山満が「アカでさえないバカ教科書」と評した山川出版の歴史本から引用したと文中にある。

教科書の記述で記事を書く記者がいるのに驚く。

まともな資料では日本を貶められないからなのか。

朝日新聞吉田清治の昔から偉そうに「歴史を直視しろ」とか説教してきた。

お前がまずやったら。

’16.1.21 の週刊新潮より