Cameraと散歩

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160524 21万個のお握り

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変見自在 高山正之

21万個のお握り


マッカーサーは本当に臆病者だった。
日本軍がリンガエン湾に上陸したと聞くとすぐマニラを捨て、バターン半島の先のコレヒドール島に逃げ込んだ。
半島には幾重も防塁が備えられ、米軍の盾となるフィリピン軍が6万、米兵も1万ほど展開していた。
日本側は大きな犠牲を払って昭和17年4月、ここを落とした。
米比軍はほとんど無傷。
ただマッカーサーの無策で医薬や糧食が欠乏し、かなりへばっていた。


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戦車隊員レスター・ケニーはドル札の焼却を命ぜられたが、勿体ないから木のうろに隠した。
部隊のトラックも「ジャップに鹵獲ろかくされるのが癪でぶっ壊した」と自伝に書いている。
そういうケチな根性をしていたから、半島からはるか先の収容所へ移動する段になってさあ困った。
トラックを残した部隊はそれに乗っていけたが、テニーたちは歩きになった。


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日本軍は衰弱気味の米兵のために途中何か所もの救護所を置いてめんどうをみた。
さらに朝昼晩にはお握りも与えた。
1日につき21万個もだ。
現地兵はコメの飯に感激したが、米兵は「パンを出せ」と文句を言った。
結局1日目は16キロ先で野営。
翌日は20キロ先のバランガで休んだ。
ここでは地元民が食べ物を手に米軍に徴用された身内の安否を尋ねてくる。
何人かはその人波に紛れて逃げた。


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先日、その道をたどった。
ガイドの女性は「大叔父もこの道を歩んだ一人で、疲れて道端で寝ていたら日本兵も見逃してくれて逃げられた」と話していた。
日本軍はフィリピン人と戦争したつもりはない。
彼らが逃げてくれれば食い扶持も助かる。
南京攻略戦のあと俘虜になった徴用農民兵もそれで逃してやっている。
比島戦のさなか、インドネシアを制圧した今村均中将はオランダ人の盾にされたインドネシア人兵士に塩を持たせて「家族に届けてこい」と放した。
誰も戻らないと思ったら、ほとんどが戻ってきた。
それを見た中将は彼らの軍隊ペタを作ってやる気になったという。
いずれにせよ日本は悪い白人とのみ戦った。
行軍は4日目にサンフェルナンド駅に着き、貨車で収容所に運ばれた。


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溝口郁夫『絵具と戦争』には行軍の途中、捕虜の士官に紅茶が振る舞われる写真や海水浴を楽しむ米兵の姿が記録されている。
安倍首相が米議会で演説する前に「バターン死の行進」保存団体から両院議長宛てに「飢餓状態の捕虜たちには水も食料も与えられなかった」「少しでも休めば殴られ、銃剣で刺された。射殺される者もいた」と抗議し、「安倍にバターン問題を謝罪させるべきだ」(ロイター電)とする書簡が届けられた。


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彼らが飢え、病にかかったのは目の前の部下の窮乏にも手当てしなかったマッカーサーのせいだ。
それでも日本軍は1日当たり21万個ものお握りを握って配ってやった。
マッカーサーはそれに感謝するどころか、独りメルボルンに逃げたあと、この「死の行進」の与太話を創作して世界に振り撒いた。
彼の嘘に乗って、テニーも「 日本人士官は馬上から捕虜の首をねた」とか嘘に嘘を重ねた。
民主党岡田克也は彼を日本に招き、揉み手して謝罪している。
今回は外務省が愚かにも彼を日本大使館の晩餐会リストに入れ、まるで彼の主張が正しいかのような印象さえ与えた。
彼をリストに入れた外務官僚は即刻クビにすべきだ。


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ところでこのバターン攻略戦のように、自軍の何倍もの「食わせなければならない捕虜」が出たときに白人国はどうしたか。
例えば終戦時、各戦場では数十万の降伏日本兵が出たが、ずるい白人はこれをPOW(捕虜)と呼ばず、JSP(降伏日本人将兵)とか名付けて糧食の提供すらしなかった。
ために日本兵たちは仏印カップ・サンジャックのように自分たちで収容所をつくり自活してしのいだ。
日本人の親切心はいつも裏切られる。

’15/05/21 週刊新潮より