'20/11/01〜30 竹津昇 水彩画展
支笏湖ビジターセンター
支笏湖
3F
2017年
千歳市民なのに支笏湖を描いたことがなかっ
た。透明感のあるどこまでも澄んだ湖水をイメージ
した。
この絵は自分らしくないとよく言われる。だけど、
人は変わっていくものだし、固定観念を打ち破る
醍醐味は、絵描きに許された楽しみである。
アンダルシアの馬
6F
2018年
アルコスの馬小屋にいた馬である。朝から夕方
までこの馬の周辺で絵を描いていた。サボテンの
生け垣をくぐっていると、その針がささってひどい
めにあった。だけど、そこらじゅうにオレンジがなっ
ていて、これがいつでも食べ放題だった。
お昼は、けっこう豪華だった。イベリコ豚の生ハ
ムとパン、シェリー酒、横に生えているオレンジな
んかで適当に食べていた。だけど、おいしくてちっ
ともあきなかった。
馬小屋の窓 100F
2006年
1999年に初めて、スペインに訪れた。アンダ
ルシア地方のアルコスという街で石造りの馬小屋
をみつけた。馬小屋の飼い葉のにおいがなつかし
かった。10年ぐらいの期間に7回訪れた。
この馬小屋のおかげで、道展と水彩連盟展に
受賞することができた。2012年にこの馬小屋は、
建て替えられ今は、見るかげもない。壊されたの
を確認してから、スペインに行く気がなくなった。
朝の牛舎
6F
2020年
東千歳の新川地区にこの牛舎がある。右に栗
の木があり、芝生の丘が広がっている。早朝や夕
方に、カメラを持った人をよく見かける。
早朝に牛舎の前を通ったら、大きな空がどこま
でも広がっていた。
額縁は、道展に初入選したときにクラスの保護
者からいただいたものだ。油彩の額縁なのでなか
なか使用できないでいた。
百姓一揆
3F
2015年
挿絵
絵を描くきっかけは、テレビアニメの再現であ
る。大抵の絵描きは、漫画好きが高じて絵を描く
ようになったに違いない。生徒は、私は漫画は描
けないと思っているようだが、漫画風の絵はむしろ
得意である。
予定調和の破壊ほど楽しいことはない。絵を描く
楽しみはこれにつきる。
たそがれの納屋
50F
2019年
昭和56年に最初の赴任地が、千歳市立中央
小学校だった。全校生徒20人程度の複式の小
学校だった。教え子が農家だったから、本当に兄
貴のような感覚だった。
教え子の納屋の前を通り過ぎたら、たまらなく
なつかしくなった。新卒から約40年が経った。
黄昏時と教師として終わりの時を意識した。
父のいたところ1
100F
2018年
5年前、父は86歳で亡くなった。父は稲作農
業を営んでいたが、機械が大好きだった。昭和
42年ぐらいに田植え機械の開発に携わってい
た。早くから自動車を運転していた。
昭和46年ごろから減反政策が始まった。家族
を養うために父は自動車学校に勤めだした。大学
4年の夏休みに、中型自動二輪と大型自動車の
免許を取った。教官は父だった。納屋を見ると父
の機械を修理する姿を思い出す。
ゴリラの目
3号変形
2015年
挿絵
小檜山博さんのエッセイの挿絵を頼まれて描
いていたことがある。他人の文脈に沿って絵を描く
のは、むずかしいことでもあるが、自分の世界観を
広げてくれる。
だけど、ゴリラを描いても結局は、自画像を描く
ことになる。絵とは、そういうものだ。
東千歳・麦秋
3F
2020年
麦を刈り取ったあとの真夏の景色である。真夏
だけど麦を刈った後は、秋のようなたたずまなの
だ。
東千歳に住むようになって13年目だ。よく考え
たら、あんまり自分で東千歳の絵を描いていない
ことに気づいた。遅ればせながら、描こうと思って
いる。
シベリアの家
3F
2014年
2回目のロシアのノポシビルスク滞在のときに近
郊の村を取材した。5月の下旬だったが、いつまで
も明るくて、午後10時すぎまで外でスケッチした。
シベリアの伝統的な家屋は、木でできている。
普通は、スケッチしていると歓迎されるものだが、
追い払われることが多かった。古い物は、田舎の
町では、よしとされないのかもしれない。
シベリアに立つ
100P
2015年
シベリアの小さな村の入り口付近にこのような
給水塔が建っている。昼間の水彩画のワークショ
ップの時に、中学生を教えた。その中の子ども
が、自分の絵を説明するとき、
「シベリアの空は、やがて日本の空になるよ。」
と語っていた。子どものこの言葉に衝撃を受け、こ
の絵を思いついた。
本当は、天気は偏西風により日本に向かってい
くが、お月様は日本の方からやってきたもので
あることに、あとで気づいた。
シベリアの納屋
20F
2015年
シベリア周辺にソ連邦時代の大きな納屋の廃
墟が点在している。私にしてみれば、宝の山であ
る。廃屋は、多くの人の生活や思い出の痕跡の蓄
積である。
一緒についてきた通訳の学生さんは、なんでこ
んなものをスケッチしているのか意味が理解でき
ないようだ。シベリアの納屋をみても父や母の姿
をみているのだ。
広島の里山
3F
2018年
去年、生徒が広島県開催の全国書画展覧会
でグランプリの内閣総理大臣をもらった。授賞式
の帰り道、里山に訪れた。内陸の庄原市だけど、
最高に落ち着く景色が広がっていた。日本人の
ルーツは山陰にあるのではないかとさえ思える。
スケッチ道具は持っていかなかったが、手帳に
ざっとスケッチした。それを描き起こした。大きな
作品も簡単なスケッチがきっかけである。小さい
絵だけど、気に入っている。
ポロト湖
6F
2020年
白老のポロト湖を取材することになった。新型コ
ロナ感染症の流行のためにウポポイのオープンが
何度も延期になった。仕方なく、カヌーを借りて対
岸のウポポイ付近をスケッチした。
湖水に目をやると、ミズキのような古木が埋も
れていることに気づいた。大きな亀が何十匹も、
水面に出た古木の上で甲羅干しをしていた。カヌ
ーが近づくとトボン、トボンと音がした。
静 物
10F
2005年ごろ
昔、公民館の水彩サークルで絵を描いていた。
勤務が終わった水曜日の夜6時から2時間ほどだ。
描く物は、たいてい静物である。25年以上もこん
な感じで絵を描いていた。
50歳近くなり、あと何枚絵を描けるだろうかと考
えた。自分は、建物とか風景が描きたいのに、静物
画ばかりを描いている。もう静物は、描かない気持
ちで最後の絵を描いた。
祈り
15F
1995年ごろ
娘が生まれた。親にしてみれば、奇跡のような
出来事だ。その思いだけで接していれば、子ども
は自然に育つに違いない。だけど、五体満足に生
まれてくれば、親はさらに子どもに多くのものを期
待する。
娘が小さい頃、小児喘息で苦しんでいた。
「元気に育ってほしい。」
そういう思いでこの絵を描いた。
洞爺湖
変形6号
1985年
大学卒業後は、しばらく恵庭の油彩サークルで
絵を描いていた。転勤になり、間もなくして三人展
をすることになった。かなりな枚数を書くことになっ
た。
スケッチに手を加え、オリジナリティを出そうと苦
労した。今見れば、だいぶ無理をしてあがいてい
る感じだ。だけど、あの頃がなつかしくていとおし
い。