Cameraと散歩

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210803 北海道似湾編  移 民 3の1

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履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
 移 民 3の1


 父母を始め私達兄弟が、移民となって北海道へ渡った日時を父はその履歴稿に、
 一、明治45年4月2日、午后7時、丸亀駅発、北海道移住   のため渡道の途に上れり。
と、記録をしてあるが、此の時、北海道へ移住をしたのは、父母と兄、次弟に私と言う5人であって祖父は、父が渡道を秘密にしていた関係で、我々5人が渡道するということを知らなかったので生家に、その儘居残った。

 祖父を除いた私達の家族は、父の履歴稿にもあるように、明治45年4月2日の夕闇迫る午后の7時に、近隣の知己や親類の人達が、多数見送る丸亀駅のプラットホームをあとにして、一声の汽笛を残して発車をした。
車上の人となって、私たちの家族は、北海道移住のスタートを切ったのであった。




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 その当時の私達兄弟は、兄が小学校の高等科を卒業、そして私が尋常科の四年を修業した年であって、次弟は5歳になっていた。

 その時の父母は、これまでの安易に過した生活態度を省みて、よしんば、家運再興と言う希望があったとしても、墳墓の地を捨てて遥々未知の北海道へ移住をすると言う現実に、さぞかし感無量のものがあろうと、現在の私は想像して居るのだが、当時の私は、そうした両親の煩悶には一向に無頓着であったから、長途の汽車旅行をするということが、寧ろ楽しいような心境であった。

 私達は、当然宇高航路によって本州へ渡る者であったから、高松駅に列車が到着すると、駅前の旅館で1泊をした。
そしてその翌朝、私たち親子5人は、連絡船上の人となって、高松港の岸壁を離れた。

 宇野港までは、風光の明媚なことで広く知られて居る瀬戸内海を、1時間程航行するのであったが、子供の私にはその明媚な風光を鑑賞するという詩情は未だなかったのではあったが、その波上に浮いて見える緑の島々の間を連絡しているらしい、小型汽船が黒煙を、恰も島と島とを繋ぐかのようにたな引かせていたことや、その魚類は何であるかは判らないが、波上に漁る小舟が数多漂って居たことが、今も私の印象に残って居る。

 宇野に着いてからの私達は、岡山までは、その当時香川県内を走って居たと同じ型式の小型客車に乗ったのだが、岡山の駅から北海道へ渡った最終の駅まで乗った列車の、機関車や客車が、とても比較にならない程に、大きかったことには、「ウム、大きいな。」と驚いたものであった。




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 私達は、その後幾度か列車を乗換えたものであったが、幸いなことには、何時も家族が向い合えるように席が取れた。

 当時の両親には、家運を挽回するための渡道と言う、深刻な旅行であったのだから、次々と変る窓外の風景等には、何んの風情も感じなかっただろうと、現在の私は想像をして居るのだが、生れて始めて、長途の汽車旅行をする私には、恰もパノラマのように、次々と変る窓外の風景に、独り決哉を叫んで居た者であった。
 それは、車中泊第1日目の朝ぼらけのことであったが、“頭に雪を頂いて、富士は日本一の山”と、学校でよく歌った唱歌の富岳が、その端麗な山容を車窓に現わした時には、「あっ、富士山が見えた。」と思わず絶叫したものであった。

 その富士山は、相当長い区間を、窓外から私を喜ばしてくれた。




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 車中泊も2日目ともなれば、とても疲れて嫌な感じであった。

 車中での次第は、何時も母の膝に抱かれて居たのだが、それは車中泊第二夜のことであった。
相も変らず母は次弟を膝に抱いて睡りに這入ったのであったが、未知数の前途に対する杞憂と現実の疲労が、床上に、膝の次弟が滑り落ちたのも知らずに睡っていた。
併し、父も兄も、そして私も深い睡りに這入って居たので誰も気付かなかったのだが、通路の向側に席を取って居た人が気付いて、「モシモシ」と声を掛けて母を揺り起してくれたので、父母と兄、そして私と言う4人の者が目を醒ましたのだが、その時の弟が、滑り落ちたまま床上で、未だスヤスヤと無心に睡って居たのが、滑稽だったので、思わず私は吹きだしたものであった。

 父母を始め私達兄弟も、あまりにも疲れたので、私達は大宮駅で途中下車をして、駅付近の旅館で1泊をした。

 私はこの大宮についての、これと言う思い出はないのだが、此処で家族全員の記念写真を撮ったことを覚えて居る。

 大宮を出発してからも私達には長い汽車の旅が続いたのだが、それから一夜の車中泊で、本州北端の青森駅に着いた。