Cameraと散歩

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210811 北海道似湾編 移 民 3の2

IMGR069-03

履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
 移 民 3の2
2

 私達は、其処から黒潮の流れる津軽海峡青函連絡船で、愈々北海道へ渡るのであったが、青森の港を出港して、海峡の中程を航行して居た連絡船の甲板から、「あそこに見えるのが北海道だぞ。」と、父が指さした彼方に、雪嶺の山脈を遥かに見た時に私は、この北海道移住と言うことが、容易ならぬ事情のもとに行われて居るような気がして、何か物悲しいものを感じた。

 函館に着いた日時については、私の記憶にないのだが、目的地への列車が夜行であったので、その時刻まで駅前通りの旅館で休憩することになった。

 旅館の2階に上った私達は、表通りに面した8畳間に案内されたのだが、私はすぐまた1人で表へ飛び出して、此処が北海道の入口の町かと、四辺を見廻した。

 駅前の通りは、駅から直線に百米程行った所が十字路になって居て、旅館はこの直線の中程の右側に在った。

 街路の幅は、丸亀のそれとは比較にならない程に広かったが、軒を並べた家の構造が、白壁の瓦葺では無くて、木造の柾葺であったことが、私には物珍しくもあり、また何か異国的な情緒を感じさせられた。



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 旅館の右隣に蕎麦屋があったが、それまでの私は、蕎麦と言う物を一度も食べたことが無かった。
と言うことは、当時の香川県には、うどん屋と言う店はあったが、蕎麦屋と言うものが無かったので、或はうどん屋で蕎麦も売って居たのかも知れないが、私は蕎麦と言う物を知らなかったからであった。

 その蕎麦屋の、暖簾の蔭から街路へ流れ出る、香川県うどん屋のそれとは異ったタレの匂いに、「よし、一杯食べてみよう」と、私は暖簾を潜ってその店に入った、そしてカケ蕎麦を一杯注文をした。

 生れて始めて食べた蕎麦は、実に美味かった。

 私は、その価格も聞かずに、二杯目を食べ終ってから、その一杯の値段が3銭だと言われて、とても周章た者であった。
と言うことは、その時私の持って居た小遣が、一枚の五銭白銅しか無かったからであった。

 私は、その五銭白銅を、注文の蕎麦を運んでくれた14・5歳位の少女の手に渡して、「今、これだけしか持って居ないのだが、隣の旅館に親達が居るから、今すぐ一銭貰ってくる。」と、私が言うのを耳にしたらしい店の主人が、格子で仕切った調理場から出て来て、「良いよ良いよ坊や、それだけにまけとくから。」と言ってから、讃岐弁の私のアクセントが変であったからであったろうが、「何処から来て、何処へ行くんだ。」と言うことを尋ねたので、「香川県から来て、生べつと言う所へ行くんだ。」と言うことを答えると、その主人が私の頭を撫でながら、「北海道と言う所は、とても寒い所だから、身体に気を付けるんだよ。」と、親切に言ってくれたのが、私にはとても嬉しかった。



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 蕎麦屋を出た私が、其処から右の十字路の方向を見ると、形は小さいのだが、電車らしい車が停車をして居たので、「ハハア、此処には電車があるんだなぁ。」と思って、その車へ歩み寄って見たのだが、その車は馬に索かれて居た。
併し、レールは電車のそれのように施設をされて居たので、“この車は、故障車だから馬に索かせて居るんだなぁ”と、思って見て居ると、その馬の馭者が、豆腐屋が吹くのと同じ喇叭を、「テート、テート」と、2、3声吹鳴して、10人程の客が乗って居たその車は発車をしたのだが、旅館へ帰ってからの私が、その光景を「今、あそこの十字路の所を右の方へ電車を馬が索いて行ったわ。」と言ったのを、寝そべって居た、兄に、「馬鹿だなぁ、それ、電車じゃないんだ、馬鉄というんだ、覚とけ。」と、威張られてしまった。

 併し、私が隣りの蕎麦屋で味わった蕎麦の味と主人との間で交した会話の一切を話すと、「ウム、蕎麦と言う物がそんなに美味かったか、よし、それなら俺も行ってくる。」と言って兄は飛び出して行ったのだが、しばしして帰って来た兄は、「ほんとに美味かったわ、俺も生れて始めてだが、丸亀ではこんな美味しいもん食べられんな。」と言って喜んで居た。

 私は、この函館の旅館で始めて鰊と言う魚を食べたのだが、その時、宿の女中さんが、「この魚は、北海道の味とまで言われて居る魚ですよ。」と言って居たが、その味に於いては定評のある瀬戸内海の魚を食べていた私には、お世辞にも美味しいとは言えなかった。



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 やがて、夜行列車の時刻となったので、函館駅を出発した私達は、岩見沢の駅から室蘭本線に乗換えたのだが、函館から岩見沢までの途中に、それが何処であったかと言うことは判って居ないが、可成りの積雪があった路上を走って居る馬橇が窓外に見えたので、それもそうした光景を始めて見たという関係もあったのだが、家族の全員が、「面白いなぁ。」と、珍らしい物への興味と、感嘆を混えた奇声をあげて、周囲の乗客にどっと笑われたことがあったのだが、それは決して、周囲の人達が私達の家族を軽蔑した笑いでは無かったと、私は今に思っている。
その時のその人達は、それを言うならば、私達の家族が互いに交して居た会話と、馬橇に対する感嘆の奇声が、まる出しの讃岐弁であったことが、ついそうした笑いになったものと思って居る。