’21/08/13付讀賣新聞1面の記事
戦後76年
刻む つなぐ
終戦の夏から76年になる。日米開戦80年の節目の年でもある。5人に戦地の経験を聞く。ゲームもスマホもない時代、軍国日本を生きた子供や若者たちだ。その目に何が映ったか。心に刻まれた記憶を、これからを担う世代へつなぎたい。
◇
16歳 台湾で聞いた玉音
終戦を告げる玉音放送は、日本から2000キロ離れた植民地・台湾にも届きました。
台北北部の山奥の中隊本部でガーガーという雑音に包まれた昭和天皇の声を聞き、「死なずにすんだ」と思った。
まだ16歳の学徒兵でしたから。
私は1929年にもう一つの植民地・朝鮮で生まれました。
父は京城(現ソウル)法学専門学校の教授でした。
台北帝大教授になったので、36年に一家で台北に移った。
翌年が日中戦争の勃発です。
41年に台北第一中に入ると「軍事教練」が待っていた。
ゲートルに革長靴、上着姿で重い歩兵銃を手に走り、引き金をガチャンと引いた。
校庭では常にどこかの学級の生徒が走らされていました。
その年の12月が日米開戦です。
台北高校に入学する直前の45年3月20日、「警備召集」を受けた。
高校で学ぶはずが、帝国陸軍二等兵になってしまった。
所属は第10方面軍。
台湾北部に米軍が上陸する想定で、台北侵攻ルートにある山腹で守備についた。
汗まみれで杉や竹で兵舎をこしらえ、泥まみれで塹壕を掘らされました。
5月31日の台北大空襲で、高い塔が印象的な台湾総督府やその周辺が爆撃された。
キラキラ輝く米軍機が、私たちを空高く飛び越えて行きました。
次は戦車部隊がやって来る。
緊張が走りました。
ところが、中隊にろくな火器がなかった。
壕で待ち伏せて竹棒の先につけた火薬を戦車にぶつける「刺突爆雷」の訓練を受けました。
呼称だけが勇ましい、お粗末な特攻作戦です。
「こんなことで死ねるか」と思ったわけです。
そもそも、17歳未満の招集には本人の志願の手続きが必要だったが、その覚えがない。
台湾では沖縄と同じように中学生も召集された。
どうしても気になって、裁判官になってから「警備召集」の法的根拠を調べたが、結局はっきりしませんでした。
島国日本膨張の果て
「若者には、戦争の残忍さや過酷さと、そこに至る複雑さを理解してもらいたい」
植民地に17年
私の植民地暮らしは、 ほぼ17年間に及びました。
生まれてから7歳までいた京城(現ソウル)は、日韓併合から20年で立派な日本人街が築かれていた。
三中井とか三越とか大きな日系百貨店もあって。
台北は街は小さいけど、亜熱帯ならではの開放感があった。
その辺になるマンゴーやバナナを食べましたよ。
それも戦局が進むと、日本人も台湾人も朝鮮人も、徴兵、志願、学徒出陣といろんな形で軍に組み込まれてしまった。
大陸へ南洋へと急拡大した日本の巻き起こす戦雲が、植民地をのみ込んでいくさまを私は最前線で目撃したのです。
1945年8月の終戦後も、台湾では「次は中国軍が上陸してくる」と緊張が続きました。
無事に除隊し、翌月から高校に通い始めたが、混乱から当時の記憶はさほどありません。
ただ、学校で教えていた万葉学者犬養孝先生の授業は覚えている。
後に文化功労者になる先生も、二等兵として召集され、私と同じ中隊で上官のいじめに耐えていました。
教壇に戻った先生の声は弾んでいた。
有名な「犬養節」の軽やかな旋律で、和歌を詠んでくれました。
「やまとうた」には平和の響きがあった。
本土への驚き
翌年4月、広島に引き揚げると植民地と本土の違いを感じました。
一番の驚きはすべての職業に日本人が就いていること。
植民地では、お手伝いさんや車掌、運転手といったサービスは現地の人々の仕事でした。
戦後再会した台湾人の同級生に「日本が我々の進学の門を狭め、職業差別が生まれた」と言われました。
私は知らずに階級社会に染まっていたのですね。
園部家は、最初に朝鮮に渡った祖父は裁判所書記、父は法学者です。
私は51年に京都大学法学部に入り、助教授になった後、70年に裁判官になりました。
89年に最高裁判事に就任した後、九州方面への出張があり、沖縄に特別な思いで足を延ばしました。
かつて所属した第10方面軍は台湾と沖縄の守備を担った。
米軍は台湾ではなく、沖縄を経て本土に侵攻する作戦を選んだ。
台湾の対戦車特攻要員の私は戦闘を免れ、沖縄の学徒は地上戦の犠牲になった。
二つの島の命運は紙一重だった。
「健児の塔」「ひめゆりの塔」と慰霊碑を巡り、手を合わせた時は感無量でした。
最高裁の法廷で
最高裁の法廷で植民地支配の傷痕に向き合う経験もした。
日本のために戦い、戦後に日本国籍を失った台湾人の負傷兵や死亡兵の遺族が、国に補償を求めた裁判を担当したのです。
1人200万円の支給が制度化されただけで、日本人の補償とは格差があった。
92年の判決は、台湾人を恩給法などによる補償の適用外とした「国籍条項」の合理性を認め、請求を退けざるを得なかった。
ただし、個別意見で<法の下の平等に反する差別であることは、素直に認めなければならない><根本的な解決は、国政関与者の一層の努力に待つほかない>と述べました。
個別意見は最高裁の結論に何ら影響しない。
それでも、台湾人の戦友と米軍の上陸を待ち構えた者として、原告側に寄り添う心情を判決文に残したかった。
国の教科書検定を巡る裁判では、対日感情の機微に触れるような、日本の侵略についての記述のあり方も判断した。
「朝鮮人民の反日抵抗」「日本軍の残虐行為」などの項目で、判事の意見は割れました。
私は97年の判決で、事実であっても全体像の理解を歪める引用は教科書に適さないと、個別意見を述べた。
未来を担う若者には、戦争の残忍さや過酷さを知って欲しいが、そこに至る複雑さを理解してもらうことも大切だと思うのです。
すべての日本人が戦後世代となる将来。
私の担当した最高裁の判決文を読んだ人が「この判事はなぜこんな意見を言ったのか」と気になり、日本の侵攻や植民地の歴史に向き合うことがあるかもしれない。
そんなこともちょっと考えます。
聞き手・沖村豪
日本の支配
列強が手本
19世紀に始まる列強のアジア進出は日本の脅威となった。
朝鮮半島への影響力を拡大することも、国を守る道のひとつだった。
朝鮮を属国とみなす清。
南下を狙うロシア。
日本はこの2国との戦争に勝つと、韓国に圧力をかけ、外交・内政・軍事を掌握し、併合した。
台湾は日清戦争の講和条約で割譲を受けてから支配権が確立された。
ともに現地の抵抗があったものの、植民地化のプロセスに違いがあり、今日の韓国と台湾の対日感情の差を生む一因になった。
南樺太や南洋諸島も得た日本が植民地支配の手本としたのもまた列強だった。
台湾や朝鮮では、水力発電所の建設や鉄道の敷設で近代化を図りつつ、日本語教育などで日本と同化させる政策が推進された。
先の大戦で日本のために戦った朝鮮人の兵士・軍属は24万人以上、台湾人は20万人以上とされる。
植民地支配は、本土決戦を避けた日本の無条件降伏によって終わりを告げた。
身勝手な母国 無念
本土から来た日本人は内地人。朝鮮人は半島人。台湾人は本島人。
植民地ではそんな呼称が飛び交った。
朝鮮生まれ台湾育ちで、いずれにも該当しない園部さんは、ただ日本人だと自覚して生きてきたと話す。
それが学徒召集で本土防衛の盾にされた植民地の悲哀を経験した。
一緒に特攻の訓練を受けた戦友には、本土とゆかりのない本島人も多かった。
母国のふるまいは身勝手に映り、悲しく、無念だったという。
戦後、判事となって植民地時代を見つめ直した園部さんは、司法による救済の限界を見極め、将来の解決に期待する個別意見を残した。
元徴用工や元慰安婦を巡る訴訟問題がいまもある。
植民地の空気を吸った園部さんのような判事は、もう日韓にいないだろう。
戦争責任の裁きに血を通わせることが難しい時代なのだと感じる。(沖村)