Cameraと散歩

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211213 似湾村の新居 5の3

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履 歴 稿    紫 影子  

北海道似湾編
 似湾村の新居 5の3


 私達の引越荷物は、丸亀駅から沼ノ端駅までが鉄道輸送、そして沼ノ端・生べつ間を荷馬車で継送される手順になって居たのだが、鉄道輸送は、貨物が人よりも可成り日数を要したので、私達が明日は似湾へ出発をすると言う日暮時に、漸く生べつ小学校に到着したのであった。

 その当時の生べつ・ 似湾間は、悪路とその村界にある峠のために、荷馬車による荷物の搬送には、相当困難なものがあった。
したがって、私達の引越荷物は馬の背を借りる駄馬搬送をすることになったので、人馬を雇う都合もあって、私達よりも1日遅れることになった。




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 引越荷物が1日遅れるので、私達は似湾の第一夜を、多盛老人の旅館に宿泊することになった。

 多盛老人の家は、平屋の木造建築であったが、可成り大きい構えの家であった。

 当時の私は、その建坪が何坪あるか等と言うことには、未だ無頓着な時代であったから、そうしたことは 全然判って居ないのだが、店の間口が六間程であって、奥へは四間程あったように思った。
そして家人の居室については、その位置も間数も全然知らないのだが、店から上って廊下伝いで二間程を行くと左へ曲る廊下が在って、その廊下が二部屋並んで居た八畳の客間へ出入をする通路になって居た。
そしてその廊下の左側が全部硝子戸になって居て、その前の二間程の空地を隔てた所に、郵便局の宿泊室があった。
従って、 この家の構造は凹形の建物であったと私は思っている。

 多盛老人の家族は、後妻の夫人とその後妻との間に生まれたたもつと呼ぶ私と同年輩の少年が居て、長男の局長さんは一粁程川下に一戸を構えて別居をして居た。



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 私達5人の夕食が終って、膳が下げられたあと多盛老人が這入って来て、老人がこの似湾へ 移住をした当時の体験談を、懇切に父に聞かせてくれたのだが、傍で聞いていた私は、未だ世事には疎い少年であったのだが、その厚意がとても嬉しく思えた。

 往時を懐旧しては語る多盛老人の体験談の中で、私が特に興味を覚えたのは、老人は此の似湾と言う所へ、明治20年代に入植したそうであったが、その当時は鵡川からの道路も、往時未だ無数の鹿が群棲して居た時代に、餌を求めては定期的に移動をした道が在った程度で、それ以外には道らしい道は無かったそうであった。
そして入植当時の似湾には、未だ 和人と言う者が2・3程度しか居なかったそうであったが、入植後の多盛老人は、国から給与された土地を只管開墾することに専念して、粒粒辛苦の末、遂に成功者の一員になったそうであったが、その開墾に着手をした当時は、堀り建てた仮小屋に、白昼狐狸の類は訪れ、夜ともなれば羆の咆哮に山野が震うという、密林の伐墾に全力を傾注をした結果が、今日の自分を成功者の位置に列せさせたものであると、多盛老人は言って居た。