履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
真夏の太陽と天狗の太鼓 7の7
私が差出す薬袋を受け取った母は、「どうしたんだろうか、今日の昼間があまり暑かったので、ひょっとすると、渡四男は暑気(日射病のこと)にあたったのかもしれんなぁ。」と言いながら、救命丸の小袋を取出して、それを渡四男に呑ました。
母が言った暑気と言う病気の症状は、郷里の香川県時代に丸亀で、私は幾度が経験をしたのだが、何処と言って別に疼痛は感じなかったが、食欲が無くて体全体が、自分ではどうしようも無い程にだるくなる病気であった。
私がこの暑気にあたるのは、きまって海や川で長遊びをした日に限って居たのだが、重い足を曳摺って半ベソで家に帰ると、「義章、また暑気か。」と言って、母は早速真紅な梅漬の汁を無理矢理茶碗に一杯呑ましたものであった。
梅漬の汁が、日射病に果して効能があるかどうかと言うことは、全然判って居ない私であるが、その当時その梅漬の汁を呑んで一睡すると、いつもケロリと快復したことは事実であった。
そうした過去の体験から、自分勝手に割出して、「なあに、渡四男の奴大したこと無いさ、一睡すれば快くなるべ。」と、至極安易な気持で私は、自分の寝床へ潜り込んだ。
「義章、五時が鳴ったよ。」と、母に呼び起こされて、ガバッと寝床を蹴った私が、「渡四男の奴、どうなったかな。」と、その寝床の彼を覗いて見たのだが、その時の渡四男は、添寝の母に抱かれてスヤスヤと安らかな呼吸で睡って居た。
何時頃から降り出したのか、外は雨降りで屋根を叩く雨の音は可成り激しかった。
例によって私の下手な炊事で、朝食をすました父と兄がそれぞれの職場へ出勤をした後の始末を終った私は、「今日は、相当読めるぞ。」と、講義録に飛びついた。
それはその日の十時頃のことであったが、犬の皮と狸の皮で作ったカツコロ(長さが膝の下十糎程の所まである袖無しに仕立たものであって、冬は防寒用に、そしてそれ以外の時は、雨衣にもなると言う便利な物であって、とても軽い着心地の良い物である)を着た次郎が雨の中を遊びに来た。
「オイ、どうだ義章さんよ、ほんとに雨が降ったべよ、あの天狗さんの太鼓が鳴ればなぁ、その翌日には屹度雨が降るんだぞ。」と彼は、昨日自身の言ったことが適中したと言う、誇らしげな面持で私に言ったのだが、その時の私は、そうした次郎に、昨夜父から教わった気象説をその儘彼に説明をしたのであったが、その時の彼は、「うん、そうなのか、それじゃあ天狗さんと言う者は居ないんだな。」と、一応頷いたのであったが、彼は未だ私が説明をした気象説を、半信半疑と言った様子であった。
いつもは茶の間に姿を見せる母が居ないことに気付いた次郎が、「オイ、おばさんはどうしたんだ、また体の具合悪いんか。」と小声でそっと尋ねたので、「イヤ、渡四男の奴がなあ、昨夜から熱を出して調子が悪いんだよ、だからお母さんは未だ添寝をして居るんだよ。」と私は彼に答えた。
すると彼次郎が、「オイ、それなあ昨日河原へ寝かせておいたのが悪かったのと違うか。」と、私の顔を覗き込んで心配そうに言ったのだが、その途端私はハッとした。
「ウム、そうだなあ、ひょっとするとそうかもしれんなあ、屹度そうだ、陽足を早めて西へ廻る午後の太陽が、洋傘の日覆からはづれて、いくら北海道の夏とは言っても、私が陽覆とした洋傘からその時刻的にはづれた陽射が末弟の顔に直射をしたかも知れんと言うことを、それは過去の体験からであったのだが、次郎の言ったようにその日のことが原因で無いと言うことを、心ひそかに祈って居た私であった。
「オイッ、渡四男さんうんと(沢山の意味)悪いのか。」と声を弾ませた次郎を、「シイッ」と、右手で制しておいてそっと母が添寝をして居る六畳間を覗いたのだが、その時の末弟渡四男は、朝の時と同じようにスヤスヤと睡って居た。
そうした末弟の渡四男は、父や兄がその勤務先から帰る時刻には、もうすっかり元気になって居た。そうして言葉には未だならない幼児の言葉でしきりと燥いで居たのだが、私は末弟の渡四男を河原に寝かせておいて、自分は泳いで遊んで居たのだと言う事は誰にも遂に話をしない儘に父は五十七歳の秋、そして母は六十二歳、兄は四十五歳で皆故人となってしまったのだが、その当時私よりも十一年と言う年下であった末弟の渡四男は、現在千歳市に住んで居て、至極健在である