履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編 村の秋祭 9の1
大正三年と言う年の秋祭が近づいた九月一日付で兄の義潔は、郵便集配人から臨時通信事務員に昇格をした。と言うことは、それまで私の馴染んで居た閑一さんは、私達が未だ郵便局の前に住んで居た当時の大正二年三月を限りに事務員を辞めて、戸長役場へ勤めるようになったので、その後任として田元さんと言う人が事務員をして居たのであったが、その田元さんと言う人が胸部疾患で局を辞めることになったので、兄がその後任者として昇格をしたものであった。
その日までの兄が担当をして居た区域の集配は、私の同級生であった、牛沢一馬と言う少年が新たに採用をされて、その牛沢君に集配人としての一切を引き継いでから、自分は先任者の田元さんから、通信事務員としての事務要領を一週間程見習ってから、単独に勤務をするようになるまでは、自宅から通勤をして居たのだが、局長の他には事務員が只一人っきりと言った郵便局であったので、その自宅が遠く離れた所に自宅を持って居た局長は、毎日自宅へ帰るので、只一人の事務員が当然一人で宿直室で起居をすることになって居た。
兄が愈々明日から一本立の通信事務員として勤務をするのだと言うことで、私は寝具その他の必要品を郵便局の宿直室へ運んだのだが、当時、運搬具と言えば、荷馬車と手車と言う物の以外には、リヤカー等と言う物を備えて居た家が無かった時代であったので、麻の細引と言う紐で背負って、一粁少々と言う道を三回、私は往復をした。
その時の郵便局では、昨日前任者の田元さんと言う人が、似湾村から十粁程、鵡川川の上流にあった穂別と言う所へ帰ったので、局長さんが一人で何か事務を執って居た。
兄は自分の引越荷物を一回運んだきりで、その儘局に勤めた。 その夜は、兄の送別という意味で、夕餉の際に家族だけのささやかな小宴を催すことになって居たので、通信事務を見習うことになってからは、毎日のように午后八時頃でなければ帰らなかった兄が、午后の六時頃にはもう帰って来た。
「さぁ、皆なお座り。」と言って母は、兄が好物だからと言って作った海苔巻の寿司と、私が昨日似湾沢から釣って来たヤマベを使った生寿司を大きな弁鉢へ上手に盛って、「義潔、沢山おあがりよ。」と言いながら、食卓の中央へ出した。
私の母は、寿司と言う物を作るのが、とても上手な人であったが、その夜の味は一段と美味いなと私は思った。
「お母さん、今晩の寿司はとても美味かったわ」と兄が母へ愛想を言うと、「そう、そんなふうに言われると、お母さんも張合があるわ。」と言って、その夜の母は喜んで居た。
父はそれまで別に設けた小さな食卓を一人占にして、ヤマベの酢の物と、天婦羅を肴にして盃を傾けて居たのだが、不図思い出したように、「義潔、明日からは愈々一本立の事務委員になるのだから、しっかりやれよ。」と言って、また酒盃を手にしたが、その顔には一抹の哀愁が漂って居るかのように私は思った。
また、「明日からは独りぼっちになるのだから、当分の間は淋しいだろうな。」と言う母の顔にも、それは僅か一粁半程の距離ではあったが、家庭から離れて独り住いをしなければならないと言う、兄に対する哀別離苦の感傷がにじみ出て居た。
その翌朝、「それでは元気でやれよ。」と激励をする父の声に送られて、六時頃に兄は玄関を出て行った。
「兄さんは今日から独りぼっちだから淋しいだろうなぁ、だけど朝と晩には俺が弁当を持ってくるのだから、俺達二人は毎日逢えるなぁ。」と言いながら家の前の細道と丁字路になって居る道路まで、私は兄を見送った。
その日の兄は、それが臨時雇と言う身分ではあっても、一応は通信事務員と言う職種になったのであったから、郵便集配人として、昨日まで着ていた膝小僧までの半てん姿とは異って、染飛白の単衣に下駄履と言った服装であったが、愈々玄関を出ようとした時に、「これはお昼のお弁当。」と言って、母が手渡した海苔巻の寿司を包んだ風呂敷包を持って居たのであったが、住宅前の細路から道への出口の所で、私の手を握った兄が、「それでは義章、今晩からのご飯運びを頼むぞ。」と言って、住宅前の細道から右へ曲った道路を南へ歩き出したのであったが、振返り振返りそうした兄を見送る私に手を振って、遠のいて行った。
私はそうした兄の姿が見えなくなるまで見送って居たのであったが、「兄さんは行っちゃった。」と、急に寂しく物悲しい気持になったのだが、併し、私の何処かで、「なあに、毎日の朝晩に逢えるじゃないか。」と、強がりをして居るところもあったが、何故か、その時の私の頰を涕が濡らして居た。