履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編 村の秋祭 9の3
「オイ、前の桂の木の下でカケス捕ったもんなぁ、俺、あの桂の木さカケスが飛んで来る度に、あの時のことを想い出すんだよ」と言って彼は、店内に適当な配置で三箇所に釣してあった八分芯の洋燈の光が、硝子戸を透して幹に届いて居る桂の大木をじいっと見据えて居た。
それから木菟を飼うために二人で雑魚を釣りに行ったことや、似湾沢で熊の咆哮に怖えたヤマベ釣の時の話を、次から次と話に花を咲かせて時の過ぎるのを忘れて居たのだが、私の帰りが遅いので、「義章、どうしたんだ、飴玉が無いのか。」と、板壁一重で仕切られた局の事務室から、兄が叫んだ。
「なんだ、お前飴玉買いに来たのか。」と言って、私から二銭銅貨を受取った保君が、「それっ、飴玉だ。」と言って差出した小さな紙袋を持って、私が郵便局へ帰ると、「随分時間がかかったなぁ、家で皆が心配して居るかも知れんから、その飴玉をしゃぶりながら早く帰れよ。」と兄は私を急立てた。
空っぽになった飯櫃の中へ蓋付の陶器を入れたのを、一反風呂敷で背負った私は、「俺は良いから。」と言う兄に、無理矢理二個の飴玉を握らせて星空の道路へ出た。
私が家に帰り着いたのが午后の九時を少々過ぎた時刻であったので、父もそして弟達も既に寝て居たが、母は食卓の横で乾いた洗濯物の整理をしながら、私の帰りを待って居た。
「あぁ、お帰り、遅くまでご苦労さんでしたなぁ。」と私を労った母が、夕食を勧めたので、海苔巻寿司と自分が運んだ飯櫃のご飯を二人で仲良く食べたことを詳に話をして私は、私のために食卓の上へ並べてあった茶碗その他の器を片付けた。
その翌朝から、私は朝夕の二回を毎日兄のご飯を運んだのだが、朝の時には、その日の畑作業や薪作りをしなければならないので、飯櫃を兄に渡すと、早々に帰らなければならなかったが、晩ご飯の時は兄が食べ終るのを待って、朝の分と合わせて二個の空櫃を持って帰るのであったから、隣の保君とも遊ぶことが出来た。
五日程すると、私のご飯運びもすっかり要領に馴れて、兄が「味噌が欲しい」と言えば、その味噌を手鍋に入れて持って行くと言った調子になった。
やがて私達が似湾へ移住してから三度目の秋の祭が訪れた。
秋祭の宵宮の日には従来の因襲で村の青年層が集って、終日、古老の指図を受けて神社境内の清掃と、山頂の社殿の前から麓に在る鳥居前までの両側に一定の間隔で数本の幟を建ててから、鳥居を潜った左側に設けてある祭典余興の奉納相撲を取る土俵を整備するのであった。
その日の私が兄の晩ご飯を運ぶ途中、神社の前にさしかかった時には、もうすっかり境内が清掃されて居て参道の両側に林立して居る老樹の枝に、葉鳴らす初秋の風が、天照皇大神宮と白地に黒く染め抜いた幟を翩翻と、はためかせて居た。
また、整備された土俵上では、奉仕の作業を終った青年達が、着衣の儘で元気に相撲を取って興じて居た。
愈々本祭の朝が訪れたのだが、いつものように私が兄へのご飯を背負って、鳥居の前に来た時にはもう山頂の神殿から、秋の実りを祝うかのように、ドンドコ・ドンと、祭太鼓の音が四辺の部落に鳴り渡って居た。
「兄さん、今日はお祭りのご馳走をうんと持って来たぜ。」と言って私が風呂敷包を卸すと、「そうか、そりゃ有難いなぁ。」と、首をひょいと引込めて、兄はハッハッハと、剽軽な恰好で笑って喜んで居た。
その日の風呂敷包には、重箱が二個包んであって、その一つには、母が自慢の海苔巻とヤマベの生寿司、そして今一つの重箱にはヤマベ、午房、人参と言った物の天婦羅と、野生の蕗と身欠鰊を煮付けた物とを詰合せてあった。
「オイ、義章とても美味いわ、帰ったらなぁ、お母さんにご馳走さんと、言ってくれよ。」と、兄はとても喜んで食べて居た。
私が帰ろうとすると、「オイ一寸待て、今日はお祭だ、これやるから何か買えよ。」と言って兄が、五銭の白銅貨を一枚くれた。
「兄さん、すまんなぁ。」と言って私は、その白銅貨をしっかりと帯にくるんで、頻りと鳴り渡る祭太鼓に心を弾ませながら、半ば駆足で家に帰った。