履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編 古潭の水死人 5の1
九月の中旬ともなれば、私の畑仕事は毎日の家族や訪問客の人達に、接待用としてその席へ出す生唐黍を、小出さんの畑へ行って十五、六本の生唐黍を捥ぎ取って来る以外には、役場の裏に在った畑で、その根を五、六糎程に伸ばした秋大根の手入をする程度のものであったから、その日その日の午后ともなれば、思う存分に講義録が読めた。
その日は秋祭りの日から十日程を過ぎた或る土曜日の午后の一時頃であったかのように記憶をして居るのだが、私の畑仕事が、あとは収穫期まで手を掛る必要が無くなってからは、「お前の勉強の邪魔になるから。」と言って、時折にしか遊びに来なくなって居た次郎が突然訪れて来た。
その次郎が、「オイ、義章さんよ、今日俺と中杵臼さ行かないか、昨日なあ、中杵臼の大川(鵡川川のこと)でメノコ(愛奴の若妻のこと)が流れさ這入って流されて死んじまったんだよ、その葬式がなあ、今日あるんだよ、お前は内地から来たばかりだから愛奴のことは何も判らないだろうがなあ、俺達愛奴はなあ、病気でなくてよ、今度のように川で流されたりして死んだ葬式にはな、古潭の大人の人が全部その葬式に出てよ、悪魔を追払う儀式があるんだよ、だからなあ、お前勉強が忙がしくなかったら、俺と一緒に中杵臼さ行って見ないか。」と、彼次郎が私を誘った。
そうした次郎の誘いに、「お母さん、次郎があのように言って居るんだが、俺中杵臼へ行って来ても良いかい。」と言って私は、母に許しを乞うた。
「うんそうだなあ、お前にしても始ての経験になることだし、折角次郎が誘いに来たんだから、お前行っておいで、だけど今からお前が中杵臼へ行ったのでは、義潔の晩ご飯を持って行く時刻にはとても帰られないだろうから、今お母さんがそのご飯を作るから、それを行く時に局の義潔の所へおいて行っておくれ。」と言って、母はそれは冷ご飯ではあったが、早速運搬用の飯櫃に詰めて、身欠鰊の煮付と香の物を入れた蓋付きの陶器を、「さぁ出来たよ、ゆっくり行っておいで。」と、私の前へ揃えてくれた。
私は例によって、飯櫃の上に陶器の蓋物を載せた風呂敷包を背負って、「さあ、それじゃ中杵臼へ行こうか。」と、次郎に声を掛けて、二人は玄関を出た。
「兄さん、俺これから次郎と二人で中杵臼へ行くとこなんだ、なあに、昨日大川で死んだメノコの葬式を見に行くのさ、だから一寸早いけど、兄さんの晩ご飯を今持って来たって訳なんだよ、そして帰りは何時頃になるのかと言うことは、俺には判らないのだけど、空櫃を持って帰るから必ず局へ寄るよ。」と言って「どうしたのよ、こんなに早く晩飯を持って来てよ。」と審かるに兄に説明をして、次郎と私は郵便局を出た。
「オイ、急ごうぜ。」とお互が言い合って、中杵臼への道を、半ば駆け足の状態で急ぐ二人の頭上を、ギャギャと鳴きながらカケスの群が、川向の方向へ飛んで行った。
私と次郎が中杵臼に着いたのは、時計と言う物を持って居なかった二人には、正確な時刻は判って居なかったのではあったが、多分その時刻が午后の三時頃ではなかったかと現在の私は思って居るのだが、水死をしたと言うメノコの家の前には、古潭の老若男女が大勢集まって居た。
「まだ始まって居なかったんだなあ、そしたら此処で一寸待って居るべよ。」と言って次郎が、その直径一米程と思われる楢の木の切株に腰をかけたので、「ウン、そうするか。」と言って、私も彼の横へ、その楢の木の切株へ腰をおろした。
そうした次郎と私がしばらく待って居ると、その模様については何も判って居ないのだが、その身には藍色に染めた模様のあるあつし(現代ではあまり判って居る者が居ないと思うが、膝小僧の所位まである着物である)を着て、古代作りの大刀を奈良朝時代の絵にあるような恰好で腰に釣り下げた二十人程の男達が、お互に向合って横隊に並ぶと、そうした列と一米程離れた所へ、その男子群と同じあつし姿で、男子群が抜刀をした大刀を握りしめた右の手を乳のあたりにおいてキラキラと光る刀身を垂直に立てた姿勢で、「ホッ、ヤホッ」と言う、掛声をかけて二列の儘堂堂巡りをするのと、殆んど同じ格好で、皮を剥いだ柳の木の枝をついて、矢張三十人程の婦人達がお互が向合って、「ホ、ヤホッ」と、男子群のそれと同じように堂々巡りをして居た。
二列横隊に向合って列んで居た男子群は、古老と言った年輩の愛奴が、肩までの総髪をして居た以外の者は、角刈や坊主刈にして居たのだが、その時集って居た女子群は、全員が肩までの総髪に紫色の鉢巻をして居て、その半数以上のものが口唇の周囲に入墨をして居た。そして男女が共に老人の中には耳輪をはめて居た者も多数にあった


