履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
古潭の水死人 5の3
そうした私達兄弟の様子を見て居た次郎が、「オイ義章さんよ、和人は矢張り俺達愛奴より偉いなあ、だけどよ、俺は矢張り愛奴だもんなあ。」と、それは和人と愛奴と言う人種的な問題に大きな悩みを抱いて居たものと見えて、頗る悲観的なことを呟きながら私と肩を並べて郵便局を出たので、「次郎、お前って奴は馬鹿気たことを考えて居る奴だなあ、そんなことはなあ、お前達愛奴が考えると言うことが、大体馬鹿らしいことなんだぞ、だからよ、中杵臼のあの時もよ、そして帰りの道々でもよ、俺が話したべよ、和人(字に書くとこうなるが、愛奴の人達は”シャモ”と呼んで居た)の俺達だってよ、次郎、お前がいつも口癖のように、自分と言う者を罵って居る愛奴のお前達だってよ、同じ人間じゃないか、それなのによ、どうしてお前と言う子供がよ、そんなにビクビクしなけりゃならないのよ。」と言って、彼次郎と肩を並べて歩いた私であったのだが、併し、その時の次郎と言う愛奴の少年には、私のそうした意思は通じなかったように、現在の私は想像をして居るのだが、その時の次郎は、「なあ義章さんよ、そんなようなことを思って居るのはなあ、お前だけの考え方よ。お前はなあ、内地(北海道以外の本州、四国、九州と言った日本全土を、彼等は内地と総称して居た)から来たばかりだからよ、未だ何も判っちゃ居ないのだけどよ、そりゃなあ、俺は愛奴のセカチさ、だがよ、学校から帰る道でよ、”今日、俺の家さ遊びに来いよ”と言うもんだからよ、その和人の家さ遊びに行けばよ、”次郎が来たぞ”と言わないでよ、”布施のセカチが来たぞ”と言って自分の子供を呼ぶんだ、そんな時の俺の気持ちは、いくら仲良しの義章さんでも判らないべ、だけどなぁ、そんな気持になる俺がよ、和人の家さ遊びに行ってよ、面白く遊べるのはよ、お前の家さ行った時だけだぞ、だからなあ、俺は屹度お前のことを死ぬまで忘れないと思うぞ。お前も、そしてお前の家の人達も、皆が揃って、愛奴の俺を馬鹿にしないで、いつも可愛がってくれて居ることをなあ。」と言ったのだが、その時のことを、今にして思えば、やがて少年の日が過ぎて青年に成長した彼が、”凡そ自殺に等しい行為だった”と言う噂を残して現世から姿を消した次郎の水死も、私達和人に対して、”俺は愛奴だから”と言う偏見が劣等感となって、彼次郎をそうした彼にしたのではないか、と思う日が、今にしばしばあるのではあるが、その当時の私としてはあまりにも少年の私にはむづかし過ぎる、彼次郎の煩悶を解消してやろうと言う術は勿論のこと、そうした彼を慰めてやると言うことすらも、なし得なかったと言うことが、現実の私としては、名状しがたい程の痛恨事の一つとなって残って居るのだが、その当時の私としては、如何ともなし得なかった者であったと言う実状であった。
やがて、山岸さんの店の前まで帰った二人が、「オイ、次郎明日また俺の家へ遊びに来いよ。」と言って、彼の肩を叩いた私と彼は、其処から右と左に別れたのであったが、そうした私が、自分の家に帰ったのは、午后の八時少々過ぎた時刻であった。
「ああ、今お帰りかい、随分と遅かったじゃないの、さぞかしお腹が空いて居るでしょう、サアサア早くおあがり。」と、母がすすめてくれた晩のご飯を食べながら、私は今日それは生まれて始めて見た珍らしい行事ではあったが、中杵臼の古潭で施行された水死人を弔う、それを古典的と言って良いのか、それとも神秘的と言うものであったか、と言うことは判らなかった私ではあったが、そうした珍らしい儀式を傍観して居た時に始まって、似湾への帰る道々を私へ聞かせた次郎の話を、詳さに説明をした。
私が家に帰った時には父も次弟の義憲も既に夕飯は終わって居た。そして次弟の義憲は、いつものように、ざり蟹を洗面器に泳がせて炉辺で面白そうに戯れて居た。
その時の父は、心地良い晩酌の酔がそうさせたものであったろうと、当時もそして今日の私も想像して居る者であるが、矢張りいつも自分の常席として居た、次弟とは反対側の炉辺に在って煙管(当時キセルと称して居た物であるが、昭和四十三年と言う現在では、その姿を見ることは至極稀である。おそらく、近い将来に於ては我々の視界からは姿を消してしまうと思う)の雁首へ白梅と称した刻莨を詰めては、それをスパスパと二、三服吸ってはその吸殻をポンポンポンと炉縁を叩いて居た。
「そう、次郎はそんなまでに悩んで居るのかい、可哀想になあ。だけど次郎と言う子は素直でとても良い子じゃないか、だからなあ、義章、お前は次郎と大の仲好しなんだから、充分慰めてやって、次郎を幸せにしてやりなさいよ。それからなあ義章よ、このお母さんはなあ、お前の友達の中では次郎が一番好きだよ。」と言った。


