履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
古潭の水死人 5の4
それはその翌日のことであった。私がいつものように茶の間で講義録を読んで居ると、「義章さんよ。」と、私の名を呼ぶ次郎の声が表から聞こえてきた。
「アッ、次郎の奴が来たぞ。」と思った私は、早速その声のした玄関へ目をやると、両手に何かを提げて居るらしい次郎の姿を、硝子戸越しに私は見た。
「おお、矢張り次郎が来たんだ。」と、私は早速玄関の硝子戸を開けたのだが、其処には生の椎茸が一ぱい山盛に這入って居る竹製の手籠を両手にぶら提げた次郎が立って居た。
「さあ這入れよ。」と、私が招じ入れると、その時私の母は、それは毎日のことではあったのだが、薯の塩煮を作るべく台所で馬鈴薯の皮をセッセッと剥いて居たのだが、茶の間へ上がった次郎は、「おばさん、一寸此処さ来て。」と、そうした母を茶の間へ呼んで、「この椎茸なあ、俺のお母さんが昨日採って来たんだ。そうしてなあ、今朝、次郎これを綾井さんのおばさんの所さ持って行けと言われたので持ってきたんだ。」と言って、次郎はその二つの手籠を母の前へ差出した。
「次郎、すまないねえ、いつも珍しい物を貰うばかりで何もお返し出来ないでネエ」と言ってから、不図思い出したように、「そうだ、今日は日曜でしょう、だから今日も義章とゆっくり遊んで行きなさいよ。」と言いながら、台所から大きな笊を持って来た母は、次郎が持ってきた手籠の椎茸をその笊へ移した。
「オイ次郎、俺はもうこの本は読んでしまったからお前読んで見ろよ、と言ってもよ、俺が買った本じゃないんだ、郵便局に居る兄貴が買ったのよ。」と言って、兄が読古して、「オイ、義章この本面白いぞ。」と言う兄から貰った”一休禅師”の単行本を次郎に読ませておいて、私は読みかけて居た講義録に区切りをつけようと、国語科の頁を数枚貪り読んでから静かに講義録を閉じた。
私が月毎に彼へ贈って居た読古しの月刊雑誌「日本少年」は、繰返し、繰返し、いつも飽くことを知らづに読み耽って居た次郎ではあったのだが、初めて読む単行本には興味が湧かなかったものか、「義章さん、俺此の本一寸むずかしくて判らないわ。」と言って、パタンと閉じた”一休禅師”の単行本を、私の手へ返した。
「さあ二人共、本を読むのがすんだようだから、これを六畳間の座敷へ持って行って仲好くおあがり。」と、台所からその当時巷間俗に一升炊きと称して居た鍋に、馬鈴薯の塩煮が一ぱい這入って居る物を持って来た母が、その鍋を私達二人の前へ置いて、「熱いうちにおあがりよ。」と言って、母は再び台所へ出て行った。
「オイ、早速食うことにするべよ、冷たくなると美味しくなくなるからなあ。」と言って、薯の塩煮の這入った鍋を持込んだ私は六畳間の座敷で、改めて私と対座をした次郎へ勧めた。
「オイ義章さん、お前んとこの薯は新地の関係もあるけど、実に美味いなあ。」と言う次郎へ、「なあに新地って言う関係はないさ、お前がよ、毎日手伝ってくれるのでよ、手入れが充分行届いた関係で良い薯が出来たんだよ。」と、それは決して愛想の言葉ではなかった、それは当時の私としては真実をその儘吐露した偽りのない言葉であったが、そうした話を交して居る間にも、二人の口は湯気をたてて居る鍋の薯を「フーッフーッ」と吹きながら、「美味い、美味い」をお互いに連発しながらも昨日わざわざ中杵臼の古潭まで見に行って来た、水死人の葬式の話、そしてその帰る道々を次郎が私に聞かせた和人と愛奴との間に介在して居る優越と劣等と言った二つの感情を、次郎自身が分析をして切々と語って居た深刻な話が、いつとはなしに話題の中心になって、しばらくは、あれ、これ、と話に花を咲かせて居たのではあったが、やがて鍋の塩煮の薯が無くなる頃には、そうした二人の話も一応種切れと言った空白の状態になって居た。
そのことは言わなきゃ良かったと後悔をした私であったが、その時の私の心境としては、”次郎、お前のことは俺のお母さんは、俺以上に心配をして居るのだぞ”と言った母の心情を彼に知らせてやりたいと、言う私の友情からと言うと、一寸オーバーであったかも知れないが、「オイ、次郎よ、俺なあ、お前には悪かったかも知れないけどもよ、お前がよ、”俺は愛奴のセカチだから駄目なんだよ”となあ、それをさ、俺は家に帰ってからお母さんに話したのよ、するとなあ、俺のお母さんはこう言ったぞ、”そうか、次郎がそんなことを言ったか、しかしだなあ義章、お母さんもお前達を此の北海道へ連れて来たのだから、お前と同じように日は未だ浅いんだ、従って、和人とか愛奴と言って区別をして生活をして居ると言う事情については全然判って居ないお母さんだけどなあ、あの次郎と言う子はなあ、お前の友達の中で一番好きな子だ”と言ったぞ。」と、私が言った途端のことであった。「おばさん、有難う。」と、それは彼への話を言い終ったばかりの私を、”ドキッ”とさせる程の叫声で茶の間の母へ声を掛けたかと思うと、彼次郎の膝の上には、ボタボタの涙の雫が落ちて居た。


