Cameraと散歩

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履歴稿 北海道似湾篇 カイカウニの熊祭 4の1

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履 歴 稿    紫 影 子  

北海道似湾編
  カイカウニの熊祭 4の1   

 やがて、内地(現在でも未だそうした呼称の風習が残って居るが、その当時は、北海道を離島にして居る津軽海峡を超えた青森県以南以西の国土を、そうした呼称をして居た)それも温帯地帯の香川県から遥々亜寒帯地域の北海道へ渡って来た私達の家族が、最も恐れて居た冬の季節(私は既に馴れて居たとでも言うのか、兎の足跡を追って針金の罠を仕掛ては、その肉を父の酒肴にして、「義章、また捕ったか、じゃ肉代三十銭、お母さん義章にやってくれよ。」父から三十銭の読書費を貰えたことと、寒さというものにも馴れて居たのだが、父母は私達少年とは異って、怖えて居たようであった)が、何の遠慮もなく訪れて私達の家族は三度目のお正月を迎えたのであった。

 それはそうしたお正月を迎えた年の或る日のことであったのだが、(その日が一月であったことは判って居るのだが、何日であったか、と言うことは記憶に残って居ない)「オイ義章さんよ、お前は此の北海道さ来てからよ、未だ愛奴の熊祭と言うものを見たことが無かべよ、ウン、そうだろう、見たこと無いのがあたりまえさ、毎年あるわけじゃないからな、俺達愛奴のセカチだってよ、今までによ、只の二度しか見て居ないんだ、それがよ、今日な、カイカウニの古潭でよ、その熊祭があるのよ、俺これからそれを見に行くんだが、どうだ、お前も一緒に見に行かないか。」と言って次郎が誘いに来た。

 私は勿論彼の誘いに双手を挙げて、「オイ、頼む、連れて行ってくれよ。」と、喜んで賛同した。



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 その日までの私は、明治四十五年の四月に香川県から北海道へ移住をする直前に、“これが最後になるかもしれん”と言う感懐の父母に連れられて参拝をした琴平神社の公園で、鉄の檻に飼われて居た羆を見たのが只の一度きりであったから、「オイ次郎、俺はなあ、熊と言う動物を今までに只の一度しか見たないのよ、でも今日はお前のお蔭で見ることが出来るなあ。」と言って私は次郎の後に続いて玄関を出た。

 私の家からカイカウニの古潭へは、T字路の道路を左に曲って北へ一粁程行くのであったが、その日までの私は此のカイカウニと言う古潭では一度も遊んだことが無かったので、その家が誰と言う人の家であったかと言うことは、未だに判って居ないのだが、次郎の家よりは少々大きい掘建の草家であったことが、記憶に残って居る。

「オイ、此処の家がそうだぞ。」と次郎が言ったその家の前には、直径十五糎程の丸太の柱が、約二米平方位の四隅に、二米程の高さで掘建られて居て、地上一米程の中段に楢の木を斧で割った厚さが5糎程、そして幅が二十糎程の粗材を床にして、その床から上部が、床と同じ粗材を使って約十糎程をすかした檻になって居た。

「オイ、見ろよ、あの檻の中に熊が居るんだぞ、そしてなあ、その熊が今日殺されて神様さ捧げられるんだぞ。」と、次郎が教えてくれたので、私は早速その檻に近寄って隙間から中を覗いて見た。  檻に近寄ると琴平神社の時と同じ熊の体臭が、私の鼻をついたが、中には土佐犬程の大きさの熊が寝そべって居て隙見をする私の顔を凝視して居たが、その目は嘗て琴平神社で見た羆の、あの獰猛そうな目とは異って、私には何か人懐っこいように感じられた。



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 「オイ、家の中さ這入るべよ。」と、次郎に促されて、私は次郎に続いて家の中へ這入って行ったのだが、屋内の広さは次郎の家の倍程あったが矢張り一室きりと言った構えであった。

 粗朶を焚いて居る炉辺には、中杵臼の水死人の葬式の時に見たのと同じ愛奴独特の衣服(アツシと言ったものかも知れない)を着た総髪の老人が十人程で、何か愛奴語で行事の打合せをして居たが、その中に只一人だけ、陣羽織を着て居る老人が混じって居た。  また、その後の方には炉辺の老人達と同じ衣装に黒い布の鉢巻をした婦人達が、これも十人程、矢張り愛奴語で何かひそひそと語り合って居た。

 私と次郎が屋内へ這入ってから、それは三十分程を経過した時のことであったが、急に屋外が騒々しくなった。すると、それまで熊祭と言う行事について何かと教えてくれて居た次郎が、「オイッ、愈々始まるぞ。」と言って、私を表へ連れ出した。

 私が次郎に続いて表に出て見ると、其処には犬の毛皮を麻で縫い合わせた“ケリ”と言う手製の靴を履いた愛奴の青壮年の人達が、半纏姿で三十人程集まって居た。

 そうして其の人達は、二人または三人が一組になって、今日の行事のことであろうと思われる何事かを、声高に語り合って居たが、その幾つかに別れた組々では、和人語で語り合って居る組もあれば、また愛奴語で語り合って居る組もあった。

 そうした青壮年の人達を五十人程の少年少女(和人の少年少女達も若干居た)達が取巻いて居て、「まだ熊祭りは始まらないの」とか、「一発の矢で熊が死ぬのかい。」と、誰彼と言った差別なくうるさく話しかけては、「このセカチどもうるさいぞ。」と、叱られて居る者も各所にあったが、兎も角その時の表は、ガヤガヤとざわめいて居た。



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イカウニと言う古潭は、私としては始めて行った所ではあったが、台地になって居て、熊祭りを催した家は、鵡川川の本流を背にして居た、そしてその家から本流の川辺へ出るのには、人一人が辛じて通れると言った細い小路があって、古潭の台地を十米程行った所から、その小路の両側に柳の木が生い茂った急斜面を、三米程降って行かなければならなかった。

 また、此の家の北側を二十米程行った台地の下には、カイカウニの沢と言っていたヤマベの釣れる小沢(私はそれまでには釣りに行ったことは無かったが、その熊祭のあった年の夏に父と釣りに行ったことが一度あったが、似湾沢のようには釣れなかった)が流れて居て、其処から五十米程の下流鵡川川の本流へ落ちて居た。

 私としては生れて初めて見ると言う好奇心が、そわそわさせて居たのだが、愈々その熊祭が始まった時刻は、現代とは違って私達少年には腕時計なんて言う物を持って居る者が一人も居ない時代であったから、正確に判って居ないのだが、暮れ易い冬の太陽が、西の山の端へ半ばかげりかけて居た時刻であったから、私は午後の四時頃ではなかったかと思って居るのだが、それまで、炉辺で何かと語り合って居た総髪の老人達が、一斉に裸足のまま雪の表へ出て来た。