履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
カイカウニの熊熊祭 4の3
私は最前のどよめきが気になって居たので、「オイ、常三郎よ、俺と次郎の二人がなあ、先刻花矢を射たあの丘からよ、皆がこっちへ帰ったのも知らないでよ、花矢の飛んで行った沢向の山をよう、ぼんやりいつまでも見て居たんだがな、此処で“ワアッ”と叫んで騒いだべよ、あの声で吃驚して走って来たんだけど、あれ、どうしたんよ。」と言って尋ねた。すると、「なあに、あの騒ぎはなあ、檻から出された熊がよ、狭い所から広い所さ出されたもんだから喜んだんだべよ、とてもあばれたんだよ、それを小さいワラシ(子供)達がおっかながって騒いだのよ。」と常三郎が言ったのだが、私はその時の状況を見られなかったのが、とても残念でたまらなかった。
現在(昭和四十三年)とは違ってその当時(大正三年)の和人対愛奴の人種的偏見は、リンカーンの解放運動に始まった白人対黒人の関係が、今に激しい闘争を繰返して居ると言う米国の人種差別程のものでは無かったのだが、嘗て次郎が「義章さんよ、お前は和人に生れて良かったなあ、俺は愛奴の子だもんなあ、いくら頑張っても、和人には成れんもんなあ。」と、その宿命を私に嘆いたことが裏書をするように、相当深刻なものもあった。
その当時、愛奴の老人と言えば男女共々揃って文盲であった、また、壮年層の人達も、その大半が老人と同様の文盲であった。
そうした文盲と言うことが、人種的偏見の素因をなして居たのかも知れないのだが、愛奴が倭人を呼ぶ時には、「何某さん。」または「何某のニシュパ(旦那さんと言う意味)」と必ず敬称語を用いて居たが、和人が愛奴を呼ぶ時には、男子を「オヤンヂ」又は「セカチ」そして女子を「ハボ」又は「バッコ」「メノコ」と呼んで、その姓名を呼ばない場合が多かった。よしんば、それが姓名を呼ぶ場合であっても、敬称を略して呼捨にすると言った状態であったから、いきおい和人は、日常の万事に英雄的な優越感で愛奴の人達に接して居た。
それはそうした和人の態度から受ける屈辱感を紛らわすためであったのかも知れないが、男子は青年層から老年層までの者が等しく酒類を実に良く呑んで居た。そうして、あまり働かないようであった。
併し、女子はそうでは無かった。家庭に在っても、そして畑の野良に出ても、また出面と称して居た日傭の仕事に出ても、実によく働いて居た、そして和人から受ける人種的差別待遇にも、決して反感を抱かなかった。
従って、男子には軽蔑の目を以って臨んで居た和人も、女子には同情の目を以って接遇をして居たようであった。
この人種的差別待遇は、我々子供の世界にもあった。それは、私が似湾へ移住をした明治四十五年の四月から、五年六年と言う二年間を学んだ小学校でも、全生徒が相当に強い差別的観念に支配されて居たことを、私は知って居る。
当時の校長先生は、和人と愛奴と言った区別をしないで、児童を平等に扱うことに努力をして居たようであったが、何故か、和人の生徒達は愛奴の生徒と机の同席を心良しとしなかった。
また、校庭での遊びも鉄棒とブランコは、いつも和人の生徒が独占して居て、鬼ごっこ、陣取遊び、石蹴、綾取と言った二人以上で遊ぶ場合にも、愛奴の生徒が敬遠されて居た。
そうした生徒の中には、恒三郎のように和人を父に持った混血児も、二、三居たのだが、そうした少年少女も、和人の生徒からは歓迎をされて居なかった。
そうした混血、純粋の少年少女達は、校庭を我物顔に嬉々として遊び戯れる和人の生徒達を、校庭の其処此処に、三、三、五、五が集まって、濃い睫の目で羨ましそうに目詰て居る日が多かった。 併し、時には其の遊びの組に加えられる日もあったのだが、勝敗のある遊びの判定には、いつも和人の生徒に一歩を譲らなければならなかった。
私も彼等の名を呼び捨てにして居たのだが、それはこの似湾の学校に転校をして来た時からのことでは無かった。と言うことは郷里の丸亀時代の習わしは、上級生の姓名を呼ぶ場合には、そのいずれを呼ぶ場合であっても、必ず敬称を用いなければならなかった。そして、同級生以下に対しては、その姓を呼ぶ場合に限って「何何」と呼び捨てたが、その名を呼ぶ時には、矢張り敬称を用いる習わしであったので、愛奴の生徒を呼ぶ場合でも、その習わしをその儘に必ず敬称を用いて居たのであったが、いつとはなしに、周囲の感化を受けて平気で呼び捨てにするようになったのであった。
併し私は、他の和人の生徒のような彼等に対する優越的な自分を意識したことは無かったので、彼等を軽蔑したことは無かった。
そうした私は、校庭での毎日を彼等とも良く遊んだものであったが、彼等はどんな遊びでも、決して自分勝手な独り良がりはしなかった。従って、その遊びの全体がいつも和気に満ちて居た。 そうした雰囲気が自然に私を彼等の遊びに近づけたものであったが、彼等も私がその遊びの組に加わることをとても喜んで居た。 私のそうした性質を常三郎達が古潭の人達に話して居たものか、どうかと言うことは判らなかったが、この日の熊祭を見物しようと、和人の親子も相当来て居たのだが、その和人の子供の中で私だけが、古潭の人達からとても親切な待遇を受けて居た。
勿論、その時の私が次郎、常三郎、徳太郎と言った三人と共に在ったと言うことも、多いに関係があったなと、現在の私は思って居るのだが、その時の私は、「オイ、常三郎よ、俺なあ、さっきよ、沢向の山さ大人の人達が射た花矢をなあ、次郎と二人で拾いに来るぞ。」と、それは珍しい関係があったのだが、今日の行事を父母や兄に聞かせるためには、是非とも欲しいなあと思いついたのを率直に話しをしたのだが、すると其の時の常三郎が、吃驚する程の大きな声で、「オイ、義章さんよ、此処さ来たらよ、もうそんなこと心配するなよ、花矢ならなあ、まだ屹度良いのが残って居るべよ。」と言って、私達の近くに居た坊主刈の頭に半白の顎鬚を延ばした五十年輩の人の側へ近寄って行った。そうして、その人と何か二言三言話を交わして居たが、その人は急いで母屋へ這入って行った。
「オイ、義章さん、喜べよ、花矢なあ、良いのが残って居るとよ、あの人なあ、俺のお母さんの兄さんなんだ。」と、私の側へ戻って来た常三郎は言ったが、待つ間もなく、彼の伯父さんと言う人が、綺麗な彫刻と色彩を施した花矢を持って母屋から出て来た。
「綾井さんのセカチよ、花矢三本あったら明日拾いさ来なくても良かべや。」と言って、その人は三本の花矢を私の手に渡して、「まだ欲しかったらなあ、いつでも良いから、常三郎か徳太郎に話せ、俺が作ってやるから。」と言い終ると、忙しそうにまた母屋へ引返して行った。
やがて熊の殺される時が来た、半弓に弓を番えた一人の老人が熊の側へ近づくと、陣羽織の老人が何か愛奴語でその老人に合図をした、すると其の老人は、熊の心臓部を狙った矢を発矢とばかりに放った。
心臓を射られた熊は、「ウオッ」と一声、四辺を震わす断末魔の咆哮を残して、どおっと雪上に倒れた。すると矢を射た老人は、素早くその矢を引き抜いて、その木種は判って居ないのだが、二十米程離れた所に只一本だけが台地に残って居た、連抱の老大樹の幹を狙って、ひょうと射た。
半弓の弦を離れた矢は、ひょうと風を切ってあやまたづ、その老樹の地上十米程の所の幹に美事命中をした。私はその鮮かな弓射の術に、思わず「うまい。」と叫んで、常三郎に、「大したもんだなあ。」と、言ったものであったが、往年は半弓一張で山野に熊を追ったと言う、その老人の人となりを、常三郎から聞かされて、さこそありなんと、私は思った。
熊の心臓を射抜いた矢を、射手の老人が引抜いたのが合図ででもあったかのように、それまで傍で老人と熊との様子を見守って居た花矢の射手達の中から、三、四人の青壮年が飛び出して来て、倒れて今は気息奄々の熊に折重なって、押潰してしまった。



