Cameraと散歩

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履歴 北海道似湾篇 私の兄と、局長さんの長男 5の4

履 歴 稿    紫 影 子  

北海道似湾編
   私の兄と、局長さんの長男 5の4

 父はお祭ということで、晩酌の銚子を倍量の四本を平げた関係で、なかなかのご機嫌であったのだが、終始浮かぬ顔の兄は私が、「兄さん、「浪花節を聞きに行かないかい。」と言って、浪曲へ誘っても、「今夜は郵便局へ早く帰らなければならないから。」と言って、行こうとしないので、私も聞きに行くのを止めた。

 柱時計が八時を打つと兄が局へ帰ると言うので、私は神社の前まで見送ったのだが、その道々を私が何かと話しかけても、兄は只小声で気の無い返辞をするだけであって、自分からは何も言い出さなかった。

 その年も去年と同じように澄みきった星空であって、片割の月が、私達兄弟を影と共に歩かせて居たのであったが、鳥居の前で別れた兄が次第に遠のいて行くのを私は凝っと見送って居たが、やがて兄の姿は月明の路上に霞んでしまった。

 鳥居前の幟は、初秋の夜風にバタバタと音をたててはためいて居たが、昼間人に沸いた相撲場の土俵は、ひっそりとして今は片割の淡い月明の中に、四本柱だけが空しく残って居た。

 また人影とても無い参道の両側には、小さな紙張のご神燈が点点と頂上の社殿まで、木立の前に白く浮いて居た。



 それは秋祭から一週間程過ぎた或る日の夕刻のことであったが、父は未だ役場を退けて居なかったので、兄の晩ご飯を局へ届けて帰った私が、晩さんの用意が整った食卓の横で、講義録を読みながら父の帰りを待って居た所へ、郵便局の局長さんがひょっこり訪れて来た。

 玄関へ出迎えた母が、茶の間へ案内をしてその来意を尋ねると、「義潔さんのことで、綾井さんと相談をしたいことがあって。」と言うことであった。

 「義章、お前一寸役場へお父さんを迎えに行って来ておくれ。」と母に言いつかって私は、早速役場へ走ったのであったが、私から局長の来意を聞いた父は、「そうか、そんなら書類を片付けてすぐ帰るから。」と言って早々に机上の書類を整理して居たが、そうした父は、私が帰って間もなく帰って来た。

 その夜の局長さんと父との対談内容は、“兄が九月限りの辞表を今日提出したのだが、両親はそれを知って居るかどうかと言う問題と、局長の長男が逓信局所定の教習を修了して、通信事務員と言う資格で正式に似湾の郵便局員として発令をされたので、臨時通信事務員として勤めて居た兄が不要になった、併し、集配人として勤務するぶんには差支えは無い、と言うことであったのに対して、父は別段本人からは何も相談を受けて居ないのだが、そう言う事情ならば是非の無いことだから、辞職をさせて貰いたい”と答えたので、兄の辞職は即時決定をしたのであった。

 局長さんは自分の長男が帰ったことによって、私の兄が辞職をすると言うことが、気拙ずかったのか、話が決まると早々に帰って行ったが、傍で此の二人の対談を聞いて居た私は、「ああそうだったのか、辞職をすると言うことを、両親に相談をしたいのだが、家庭の経済事情を考えると、一寸簡単には言い出せないし、と言って今更郵便配達に逆戻りはしたくないので、煩悶をして居たんだな。」と、ここ数日来兄の浮かぬ顔の謎がようやく解けた。



 私は「もう遅いから、早く寝なさい。」と、母に言われて早々寝床へ潜ったのだが、当時十三歳と言う自分では、到底解決できない問題であると言うことは判って居ても、兄が郵便局を辞職したならば、これから先はどうすれば良いのか、父の給料だけで我我家族の生活が可能なのか、若し不可能であった場合にはどうなるか、等とまとまりのつかないことを、繰返し繰返し次から次と考えさせられて、容易に睡れなかったのだが、そのうちいつしかウトウトと睡ったようであったが、裏の鶏舎からの鶏鳴に目醒めてからは、遂に眠れぬ儘に朝を迎えてしまった。

 翌朝私が朝と昼のご飯を郵便局へ持って行くと、一身上の複雑な煩悶が睡らせなかったものか、寝不足らしい冴えない顔の兄が「昨夜、局長さんが行ったろう、お父さん、怒って居なかったか」と言ったので私は、昨夜の情況を詳しく説明をした。

 「ああそうか、お父さんは怒らなかったか、相談をしなければならないと言うことは良く判って居るんだがなあ、俺が辞めたら家が困ると言うことも充分判って居るのだからなあ、とうとう話し出せなかったんだよ、俺もなあ、ずうっと配達をやって居たんであればよ、何んでもないことなんだけどよ、それが臨時と言う身分であってもよ、一度事務員をやってから、また配達に逆戻りをすると言うことは、どうしてもやれんもんなあ、それでもよ、我慢をして配達をやろうかと随分考えたのだけどなあ、どうしてもやる気になれなかったので、とうとう黙って辞表を出してしまったんだよ、だけどなあ、俺と言う男はお前のように百姓もやれなけりゃ、薪作りもようやらんからなあ、だから辞める時には退職の手当をくれると言うから、それを持ってよ、俺は札幌へ出ようと思って居るんだ、そしてなあ、札幌で何か仕事を見つけてよ、食べて行くつもりだから、家のことはなあ、すまんけどお前頼むぞ。」と言って、兄は「ハハハァ」と、力の無い声で笑ったのだが、その顔は涙をこそ流して居なかったが、確かに泣いて居る顔であった。



 私は郵便局から帰る道々を、兄の言ったことを、家に帰ってから父母へ話すべきか、べからずかと言うことを考えながら歩いたものであったのだが、そうすれば、父母が心配をするから、その話すことを止めて、若し兄が札幌へ出奔をしようとしたならば、それを私が止めれば良いのだと言う、独自の結論を勝手に出して、そのことを誰にも話をしなかったのだが、兄は三十日の午后八時頃に身廻りの物を持って帰って来た。

 家具とかその他の大きな荷物は、朝のご飯を運んだ時に、三回で運べるように荷造をして、その全部を私が持って帰って居たので、兄の身廻品と言えば愛好の明笛が残って居ただけであったのだが、兄はその愛好の明笛を吹奏しながら帰って来たのであった。

 その日の家では、兄が今夜帰って来るのだからと言うので、次弟と末弟は寝床の人となって居たが、父母もそして私も、その兄の帰りを待って居たのであったが、私は例によって講義録を読んで居た。すると、そうした私の耳に、“荒城の月”の曲を奏でる明笛のメロデーが聞こえて来たので、「アッ、兄さんが帰って来た」と表へ飛び出して、丁字路の道路を右へ曲がって役場の前まで、夢中になって走った。

 「兄さん今帰ったの、お父さんもお母さんも、未だご飯を食べないで待って居るよ。」と私が言ったのへ、「そうか、済まんことだなあ。」と言った兄の声には力が無かった。