Cameraと散歩

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履歴稿 北海道似湾編 私の兄と、局長さんの長男 5の5

 

履 歴 稿    紫 影 子  

 ガラガラッと硝子戸を開けた私が、「只今。」と声をかけて、兄と二人で玄関を這入ったのだが、茶の間へ上がった兄は、「済みません。」と言って父に頭を下げた。

 その時の父は、腕を組んで何か思案をして居たようであったが、そうした兄に、「仕方ないさ。」と、軽く頷いただけではあったが、その顔には前途の生活を憂慮する苦悩の色が漂って居ることを、少年の私にもはっきりと覗がえた。また、「さあ、夕飯を食べましょう。」と、食事を促す母の顔にも、父のそれと同じように憂色の色が濃かった。

 それは誰が先と言うことはなしに、それぞれが箸を取ったのではあったが、親子四人の者が、その夜の晩さんを殆んど無言の裡に終わってしまった。

 それはその翌朝のことであったのだが、その頃の私は、それを習性とでも言うものか、柱時計が五時を打つと必ず目を醒す少年になって居た、従って、その朝もその五時を打つ音に目醒めた私が、「さあ、起きよう。」と頭を擡げて、久方振に隣った寝床へ寝た兄の寝床を、見るとはなしに目をやると、その兄の寝床は、蛻の殻であったので私は驚いたのであったが、その瞬間ハッとした私の全身は、恰も電気にでも触れたかのような衝撃を受けたものであった。





 

 それは、突然局長が訪れた日の翌朝、弁当を運んだ私に兄が、自分の苦衷を語ったあの日から、私の脳裡を右往左往して居た、「札幌へ出て行って、職を見つける。」と言った兄の言葉であった。

 私は脱兎のような勢で茶の間へ飛び出した、その時兄は居た。確かに私の目の前に兄は居てくれた。併し、その時の兄は只一本の明笛と言う愛笛を持って玄関の硝子戸に手をかけて居る、兄の姿であった。

 その時の私は、殆んど無我夢中と言った状態で、そうした兄に飛びついた。そうして、「兄さん、行かないでくれ、俺はどんなことでもするから、行かないでくれ。」と、叫びながら「ワアッ」と声をあげて泣き出してしまった。

 それまで滅多なことで泣くと言うことを知らない私の泣声を聞いた母が、周章て飛び出して来た、そうして二人のそうした様子を見て、その瞬間は一寸おろおろしたようであったが、やがてキッとなって、「義潔、お前はどうするつもりなの、お前は何処かへ家出をしようとしたのと違うか。このお母さんはなあ、お前の決心がどうしても家出をすると言うのならば、決して止めはせんよ、元気に出て行きなさい。だけどネエ、今、お母さんが言うことを良く聞いてから出て行きなさい。」と、厳然とした態度で言い放つと、その途端に兄は、「お母さん。」と叫んで、玄関の土間に膝をついて、泣き崩れた。

 そうした兄に、その時の母が懇々と言い聞かせて居た話の要点は、凡そ次のような内容であった。




 

 私達の家族が明日は遠い未知の北海道へ移民として旅立つと言う日の朝に、福井の伯父(母の実兄であって、香川県綾歌郡法勲寺村と言う所で肥料の問屋を営んで居た当主)が訪れて、その実妹の母に、「お前はどうしても北海道へ行くか、俺は度々言うのであるが、倉太はん(私の父は倉太郎と言う名であったが、福井の伯父はいつもそう呼んで居た)は、頭脳もしっかりして居るし学問もある人じゃがのう、惜しいことに気の小さい人だ、だから北海道へ行ったからとて、とても成功出来る人とは俺には思えんのだ、そうするとお前が苦労をするのは目に見えて居るんだ。だからお前は行かんと残れ。そうして福井の家に帰って来い、法勲寺の村には、お前の田が二反歩あるのだから食べるのには何の心配もない。一番末の子(この時の末っ子は私の次弟の義憲のことである)を連れて別れるんだ、住む家のことは心配をするな、俺がちゃんと建ててやるから、是非そうしろよ、倉太はんとの話は、俺が決着をつけてやるから。」と言ったそうであったが、その時の母は、「兄さん、その親切はとても嬉しいのですが、女は三界に家無しと言う身分です。だから私は、矢張り北海道へ行きます。兄さんの言うとおり、北海道へ行ったからと言っても、とてもじゃないが、成功して帰ると言うような事は出来ないと思うのですが、それでも私は北海道へ行きます。と言うことは、若し私が行かなかったならば、そう言う気の小さい父親と暮す義潔と義章が可哀想です。そうした意味で私は、子供達のために北海道へ死にに行きます。」と言って、肉親の兄が切に勧めた説を退けて、私達兄弟のために母は、未知の北海道へ骨を埋める覚悟で渡道をしたのだ。」と言うことであった。




 

 そうした事情の母が、慈愛に満ちた涙の説得によって、兄の家出は思い止どまったのだが、それからの家庭は、何んとなく薄暗い空気が漂って居て、その朝は、ついに姿を見せなかった父ではあったのだが、その日からの父はしきりと手紙を書く日が続いた。

 そうした家庭内の空気の中で、兄の懊悩が日増に募って行くように見えたので、私は何とかして、そうした兄の気を晴したいものと思って、或日兄を似湾沢のヤマベ釣に誘った。

 ヤマベ釣は、九月と言う月が最適の季節であったから、兄と連れだって似湾沢へ出かけた十月の上旬も未だその最適と言う期間中であったので、二人の成果は実に素晴しかった。その釣り上げた尾数においては、お互に甲乙が無かったのだが、魚身の大きいのは、何故か兄の餌によく釣れた。

 「オイ義章、今日は実に良く釣れて面白かったなあ、曇って居た関係もあるんだべな、馴れない俺にも随分沢山釣れたもんなあ」と言った兄は、大きいヤマベを釣った時の模様を得意そうに、帰る道々を話しながら歩いたのであったが、その日の兄の顔は久々振に晴々として居た。

 それは、その夜のことであったが、兄と二人で釣って来たヤマベの大きい物を、白子と共に生酢にした物を酒肴の膳に供えたのを、「さあ、お父さん。」と言って、母が勧めると、父がとても喜んで、「ホウ、この大きいのは、義潔お前が釣ったのか、こんな大きい奴を釣った時は、さぞかし面白かっただろう。」と兄に話しかけると、昨日までは憂鬱そのものであった兄の顔も、その夜は明るく綻びて居たので、「イヤお父さん、今日はまぐれですよ、柳の下にいつも鰌は居ないって言うから、この次は駄目でしょう。」と言って、いとも朗らかに応待をして居た。




 

 その後も、私と兄は3回程似湾沢へヤマベを釣りに行ったが、その都度、相当量のヤマベを釣って帰っては父を喜ばした。

 私が約三反歩と言う小出さんの畑の豊作物を、次郎の応援もあって、どうにか収穫を終ると、やがて白鷗が乱舞をする冬が、駈足で訪れて、大地を白一色に塗り潰してしまった。

 それは、なにかと物忙しい歳末が身近に迫った十二月の上旬のことであったが、その夜の晩酌に盃を傾けながら、父が「オイ、皆、今度お父さんは幌別と言う所の役場へ転勤することになってこの十八日に引越をすることになったから、お前達は皆で荷物を整理して、それまでに準備をして置けよ。」と突然言ったので、母を始め兄も私も驚いたのだが、「そう、幌別へ転勤をすることに決まったの、そりゃ良かった。幌別へ行けば鉱山もあると言うし、室蘭と言う町も近いのだそうだから、義潔も義章も働けるよ。」と母が言ったので、私は“ああそうか、兄さんが郵便局を辞めたので家計が苦しくなったからか”と引越すと言う理由が即座に判った。そして、それまでの父が、しきりと手紙を書いては文通をして居たのが、転勤運動の書簡であったと言うことも判った。

 その頃の私は、その翌週からその頃の似湾としては、豪農の部類に属していた似湾沢の倉淵さんと言う人の家に、作男して住込むことになって居たのだが、父が幌別の役場へ転勤をすることになったので取り止になって、その前途に波乱と曲折の多い春秋が待って居ると言うことを知るよしも無く、十二月十八日の朝に第二の故郷となった似湾村をあとにして、父母を始めとした家族の全員が、新住の地幌別と言う所へ向って出発をしたのであった。




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