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Cameraと散歩

since '140125

170215 再びのカムラン湾

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 変見自在 高山正之

  再びのカムラン湾


ソ連の崩壊中、そのソ連が租借していたベトナムカムラン湾を覗きにいったことがある。

立ち入りも写真も厳禁の軍事基地は入り口に歩哨もいなかった。
「お邪魔します」とか言って湾を望む埠頭まで車で入り込んだ。

湾口には大きな島が屏風のように聳え、それを迂回して入ると奥行きは5キロもある。
守るに易い天然の軍港に見えた。

忍び込んだときは湾中央部に潜水艦が浮上係留され、ずっと向こうに赤い星を付けた貨物船が何隻か見えた。

埠頭から写真を何枚も撮ったが、注意する者もいなかった。
国が落ちぶれるとここまで杜撰になる。



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この白く輝く湾と日本は結構深い縁がある。

まず明治37年。
東郷艦隊と対決すべく地球を半周してきたバルチック艦隊のここが最後の休養地だった。

しかし日英同盟が休養を阻んだ。
英国は日露の戦いには中立を保つが、第三国がロシアに援助供与した場合、第三国を片付ける義務を負っていた。

誰がロシアのために大英帝国と好んで戦うか。

ロシア艦隊が燃料補給に聞こうしたアフリカ西岸のグレーとフィッシュ湾ではすぐポルトガルの砲艦が来て「出ていけ」と追った。

マダガスカルでは同盟国のはずのフランスから上陸を拒否された。
そのままインド洋を渡りマラッカ海峡を越えて、仏印カムラン湾までやってきた。

今度こそ大地を踏めると思ったら、仏巡洋艦デカルト」がやってきた。
口上は同じ。
日英同盟がある以上この湾はお貸しできない。
悪いけど出て行ってほしい。

ロシア艦隊は後からくるネボガトフ提督の艦隊とここで合流する予定だった。



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結局、バルチック艦隊は湾の外で1か月も波に揺られて待機を続けてから日本海に入っていった。

日本海海戦の勝利は東郷艦隊の強さによるものだが、幾ばくかは日英同盟に負うところがあった。

因みにこの湾を白く輝くと形容したが、それはここの大地が珪砂でできているからだ。
日露戦争後はその傾斜を日本が輸入した。
戦前の日本のガラスは多くカムラン湾のものだった。



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次にこの湾の名が出てくるのは昭和15年になる。
この年の6月にフランスがドイツに降伏し、仏印は親独ビシー政権下に入るが、もはや本国からの支援はない。
孤立状態にあった。

それを見てタイが仏印に宣戦した。
フランスに奪われたカンボジアを取り返せると信じ、日本から供与された海防艦トンブリや三菱の爆撃機が出動した。

しかし仏印軍は腐ってもタイよりは強かった。
あっさり撃退し、逆にバンコクが占領されかねない事態に至って日本が仲介に出た。

昭和16年春、東京で調印された講和条約仏印に逆にバタンバンまでの領土を返還させ、日本には南部仏印進駐とカムラン湾の使用を認めさせた。
アジアに初めて正義が行われた。



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それで同年7月、メコン川河口のカブサンジャックに第25軍が上陸。
カムラン湾には南方方面軍の海運基地が置かれた。

湾内では陸海軍の部隊が繰り返し上陸演習を行った。
マレー上陸作戦に備えたものだった。


日本人が闊歩し、白人が縮こまる。
ベトナム人はその景色を忘れず、日本が退場した後、モツハイを生んだ。
日本軍の「イッチニッ」をベトナム語に訳しただけだが、それがこう仏民兵の走りで最後はディエンビエンフーで仏軍を破った。

カムラン湾はそのころ米軍が取り、サイゴン陥落後はソ連が同湾を租借し、太平洋艦隊の基地として使用してきた。



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そのソ連が崩壊し、湾が冒頭のように寂れると、それに対峙していたフィリピンのスービックベイの米軍もいなくなった。

力の空白ができると鼠が出てくる。
習近平が目の前の南沙諸島を埋め立てて軍事基地化し始めた。

中谷元が先日ハノイに行って海自の艦船のカムラン湾寄港が決まった。

日本が仕切っていた ころの安定をアジアは期待しているように見えないか。


’15,12,24の週刊新潮より