Cameraと散歩

since '140125

160712 東のイスラム国

DSCF2323
変見自在 高山正之

東のイスラム


邦人2人に次ぎヨルダンパイロットを焼殺したイスラム国について安倍首相は「非道」と言った。
非道の一つは「捕虜は殺さない」ルールの違反だ。
このルールは南北戦争をきっかけに生まれた。
だいたい米国はそれまでの長いインディアン戦争で捕虜殺戮、非戦闘員殺戮を公然とやってきた。
シャイアン族との戦いでは男たちが仮に出たすきに三度クリーク宿営地を襲い「白旗を掲げる幼女を撃ち殺し、その母親の腹を先、頭皮を剥ぎ、指を切り落として指輪を奪った」(D・スタナード『米国のホロコースト』)。
南北戦争も戦い方は同じ。
両軍とも捕虜を殺し、敵の街では市民も殺し、トータルで62万人もが殺された。
この反省から19世紀末のハーグ国際会議で、陸戦条約が話し合われた。
捕虜は殺すな、非戦闘員も殺すなのルールが出来上がった。


DSCF2324
しかし同じ時期フィリピンの植民地化戦争をやっていた米軍はすぐ抜け道を作った。
「陸戦条約は正規軍のみが対象でゲリラには適用されない」
発案者はあのマッカーサーの親父のアーサー。
彼は抵抗するアギナルド将軍以下のフィリピン軍を一方的に「非正規軍」つまりゲリラと認定し、捕虜を拷問し、処刑もした。
「1週間銃殺」も発明した。
月曜に右肩を撃ち抜き、火曜は左膝、水曜に左肩、木曜に右ひざを撃ち、金曜日にやっと心臓を撃って殺した。
苦痛と死の恐怖を1週間も味わわせた。

支那も米国と同じ傾向を持つ。
日本人はそれを日清戦争開戦直後に知り、山縣有朋が「生擒せいきん(捕虜)になるな」とする訓示を出している。
「生擒に遭わば死に勝る苦痛を受けついには野蛮惨毒の所為をもって殺害せらるるは必定なり」 野蛮惨毒とは「耳を削ぎ、鼻を削ぎ、目玉をえぐり出し陰茎を切り落として喉に詰め、やっとなまくら刀で首を引き斬っていく」(秋山好古の副官報告書)。


DSCF2327
ジハーディ・ジョンはいましめられた後藤健二の首を引き上げて頸動脈を断ち切った。
ほぼ即死するのに対して支那人のそれは1時間以上も続く。
ジョンは首を切り落とすと遺体を寝かせ、その胴体に首を据える儀式をする。
支那にも死後処理がある。
捕虜を斬首したあと胸から腹をって心臓を取り出し、あとに石を詰めて死体を冒瀆する。
手足は切断して民家の軒先にぶら下げた。
「日本軍は戦友の傷ましい姿にもじっと感情を抑え、支那人捕虜に報復することもなかった」(ベルギー公使A ダネタン)

イスラム国はヨルダンパイロットを檻に入れ火を放ち下から焼き殺した。
残忍だが、蒋介石軍はもっと野蛮だった。
日支事変のさなか、日本兵が拉致され、半焼きにされ、まだ軍服がくすぶっている状態で日本側駐屯地近くに放置された。
兵士は苦しみ抜いて死んだ。

イスラム国は戦闘で捕えたイラク軍兵士らをまとめて銃殺し、その映像を送りつけてきてもいる。
捕虜殺害というルール違反では米支に並ぶが、残虐な殺害方法ではまだ支那に劣るところがある。


DSCF2329
首相の言う非道のもう一つはイスラム国の過酷すぎる刑罰だ。
男の宗教心を乱さないよう女は髪と体の線を隠すニカブを着る。
それに背いた30代の女がアレッポ近くの街で「首まで地面に埋められ、石を投げつけられ」(朝日新聞)て殺された。
最も残酷と言われる石打ちの刑だ。

処刑の残酷さでも前述した1週間処刑があるように米支はその上を行く。
とくに支那は残酷の極みを行く凌遅刑りょうちけいがある。
太平天国の乱では首謀者がすべてこの刑に処せられ、生きながら体の肉をそぎ落とされた。
民衆はその肉片を薬として珍重した。

一昔前にあった福岡一家4人殺しで犯人の支那人留学生はこの凌遅刑を家族に行っていた。
日本人の多くはイスラム国の残虐さに驚いたはずだが、実はもっと残忍な国がほんのそばにあることをこの機に思い出すことだ。

’15.2.19 週刊新潮より