171027 マグナカルタ vs 17条憲法 藤原正彦の管見妄語
藤原正彦の管見妄語
マグナカルタ vs 17条憲法
集団安全保障をめぐっての長い論争が続いている。
鉄炮をもった無鉄砲な国が隣りにあり、19世紀的な領土拡張の野望をもち、しかも我が国に敵対的であったとする。
自力だけで国土や国民を守れないとなれば、必然的に「攻めてきたら皆でやっつけるぞ」の集団安全保障が必要となる。
右派の言う通り現実的には、世界一生意気だが世界一強いアメリカと組む他ないのは明らかだ。
ところが左派の言う通りこれが憲法第9条に違反しているのも明らかなのだ。
自衛隊自身がすでに違憲だ。
「戦力を保持しない」と明記していながら、自衛隊はどこからどう見ても優秀かつ強力な戦力だからである。
GHQが定めた憲法の改正をなぜかいやがる国民が、「憲法解釈」という詭弁により70年近くも合憲としてきたものだ。
ここ数年、かくも我が国が集団安全保障で揺れたのは、「話せば分かる」の通じない隣国の急激な軍事的台頭を前に、官民こぞっての嘘が、いよいよ限界に達したということだろう。
「嘘つき日本」の汚名をそそぐためには、大きく次の三つが考えられる。
なるべき早期に、
(1)嘘の根源である自衛隊を廃止する、あるいは縮小し災害救助隊にする。
(2)現憲法を改正する。
すなわち現憲法を時代に合うよう修正するか、まったく新しい独自のものを作る。
(3)現憲法を廃棄して新しいものを作らない。
(1)は中国や北朝鮮のミサイルが日本に向けられている時代に、いくら何でも無責任すぎる。
全面的にアメリカに守ってもらうというなら完全なる属国への道を歩むことになる。
論外だ。
(2)は、戦後日本が戦争に巻きこまれなかったのは平和憲法のおかげという擁護派と、アメリカの傘の下にいたおかげという改正派ががっぷり四つに組んでいる。
平和憲法を掲げていればどこの国も攻めてこない、という神話については哲学者田中美知太郎氏が「ならば台風の襲来も憲法で禁止すればよかった」という趣旨の名言を吐いた。
それでも神話信奉者は多く、そうでない人々を軍国主義者と見なしている。
戦後70年近くこれだったからいつまで経っても埒は明くまい。
(3)は憲法なしでやっていくというものだ。
イギリスには今も成文憲法がなく、マグナカルタなど歴史的な議院決議や国際条約、重要な判例、基本的人権といった普遍的価値、などに則って実務を進めている。
近代憲法の誕生はフランスとアメリカで、前者は民衆による大革命、後者はイギリスからの分離独立、という体制の大変換により成文憲法が必要となった。
また仏米はともに論理的であるのが大好きな国だ。
アメリカは言葉も習慣も文化も違う人々のるつぼで、共通のものは論理だけだから、自然と論理一辺倒の国となった。
ヨーロッパ大陸の人々、とりわけフランス人は論理が好きだ。
一方のイギリス人は論理より地に足をつけた議論を好む。
抽象的で論理的な議論はフランス人のもの、と距離を置いている。
だから哲学においてもヨーロッパ大陸で盛んだった形而上学がイギリスでは育たなかった。
自ら経験した事実に頼るというのがベーコン以来のイギリス哲学の主流だった。
アメリカのある哲学者は,大陸の合理論とイギリスの経験論を比べ、「諸原理によって進む硬い心と、諸事実によって進む軟かい心の違い」と評した。
憲法を軸に進むフランスと、判例、慣習、良識などを参考にしながら進むイギリスとの差もここから来るのだろう。
我が国はイギリスと同様に血で血を洗う革命を経ていないし、日本人はイギリス人以上に論理に全てを託さない国だ。
だから形而上学も育たなかった。
成文憲法なしで時代の変化に柔軟に対応しながら進むというイギリス流は日本の国柄似合っていそうだ。
古い物好きのイギリスが1215年のマグナカルタを掲げるのなら、我が国は「和をもって貴しとなす」の17条憲法(604年)を掲げればよい。