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Cameraと散歩

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160918の卓上四季

新聞記事

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160918の卓上四季に

「ああこれでいい、これで大丈夫だ」
「今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」。
小樽ゆかりの作家・伊藤整が日記にそう書いた。
1941年、米英などへの宣戦布告で太平洋戦争が始まった際のものだ。

戦争が起きて何がうれしいのか、というのが今の感覚だろう。
まして自由人の伊藤である。
だが当時は、大多数の国民が開戦に沸いた。
報道や教育、日常生活にまで統制が及んで、戦いを歓迎するよう仕向けられていたのだ。

と、書かれていた。



「作家で自由人の伊藤が戦いを歓迎するよう仕向けられた」と思っていることは、伊藤整に対して失礼だと思うのだが・・・。
作家で自由人であることは、俗に言う庶民よりより多くのことを知っている知識人であろう。
報道によって戦いを歓迎するよう仕向けられたとするのは、果たしてどうなんでしょうか。


さらに、
当時の日本政府は「満州事変」「支那事変」などと呼んで、戦争という言葉を避けていた。〜と。


「戦争」とは、主権国家間の、軍事力行使を中心とする全面的な争い。
「事変」とは、宣戦布告なしで行われる国家間の戦闘行為。
国語辞典集英社)に記載されている。

満州事変」
昭和6年9月18日午後10時20分、奉天駅から東北に8キロほど離れた柳条湖という場所で、南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された。
この付近で満鉄の警備に当たっていた日本の関東軍独立守備隊は張学良率いる東北辺防軍の仕業だとして、東北軍が駐屯する近くの北大営を攻撃、占領した。
衝突の事実を受電した関東軍司令部は、電報や電話で満鉄沿線の各連隊や独立守備隊を次々に出動させ、19日昼ごろには奉天を制圧、同日中には沿線の主要都市をほとんど占領した。


支那事変」
昭和12年7月7日深夜11時ごろ、盧溝橋と呼ばれる地域の少し上流東側の荒れ地で夜間演習中の日本の支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊に属する第8中隊が、背後の堤防上から銃撃を受けた。
発砲したのは、中国冀察きさつ政務委員会麾下きかの第29軍第3営とされる。
日本軍が北京郊外に駐屯していたのは明治34年、義和団事件後の条約で認められており、英国など各国の軍同様、現地で演習も行ってきた。
発生当時、第8中隊では初年兵が行方不明(まもなく発見)になっており混乱したが、報告を受けた第3大隊は8日午前5時過ぎから中国軍への攻撃を開始、夕方まで戦闘が行われた。
昭和16年12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。
戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援はこれに反する敵対行動となる。
国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされた。
事変の長期化と共にアメリカ(多量の武器を輸出)やイギリスは重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援した。
昭和16年12月8日の日米開戦と共に蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し日中間は正式に戦争へと突入していった。
同12日、日本政府は支那事変をも含め大東亜戦争と呼ぶことを決定した。