Cameraと散歩

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211114 北海道似湾編 似湾村の新居 5の2

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履 歴 稿    紫 影子  

北海道似湾編
 似湾村の新居 5の2


 私達親子5人は、1週間の仮寝の宿であった生べつ小学校をあとに、新住の地となる似湾村へ出発したのは、明治45年の4月16日であった。

そうして、私達が校門を出た時刻が、朝の6時頃であったように覚えて居る。

 嘗て、鵡川から 私達が歩いた生べつまでの道は、鵡川川の川岸から山麓までが耕作されて居たのだが、生べつから似湾への道は、その中程に在る中杵臼と言う20戸程の部落附近が、若干耕作されて居た程度であって、それ以外の所は似湾との村境になっている峠を降るまでは、道の両側が千古斧釿を知らないと言う雑木の原始林であった。

私達の家族が行く似湾の新居は、生べつから更に鵡川川の上流へ八粁程行った所に在って、その字の名を下似湾と称して居る所であった。

 両側から雑木の密林に覆われて居て、途中に逢う人とてもない田舎の道をトボトボと歩いた私達が、目的地の下似湾へ着いたのは、その日の正午に近い時刻であった。




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 私は、沼ノ端から鵡川の本村へは馬車で、そして生べつ・ 似湾と徒歩で旅行をしたのであったが、郷里の香川県とは、風物があまりにも異なって居るので興味が持てなかったから、途中の風光と言うものには、全くの無関心であった。

 似湾で、私達が新に住む家の先住者は、北海道庁の森林看守であったそうだが、その家は生べつから私達が歩いて来た道の右側に在って、その道路からの入口には、直径二十糎程の丸太が門柱の形式で建ててあった。

 そしてその住宅は、其処から六米道這入った所に建てて在って屋根が柾葺と言う南向の木造建築であった。

 家の構造は、玄関を這入った所が一坪の土間であって、その土間の左側には畳二畳を敷ける板の間、そしてその右隣りにこれも畳六畳を敷ける板の間が在ったが、この板の間を私の家では茶の間として使ったのだが、この茶の間と玄関の板の間の奥に、それぞれが一間の床の間と押入が在る八畳の座敷があった。




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 この構造を見て私が驚ろいたのは、八畳間の座敷以外が、全部板の間であったことであった。

 また、玄関の土間の蔭が一坪の台所であって、その台所から左へ降りた所が、三方の囲いも、そして屋根も葭で造った四坪程の物置であった。

 勿論、下は床のない土間であった。

 台所からその物置への仕切は、粗末なものではあったが、板戸を使ってあったので、まずまずだなと私は思ったのだが、物置から表への出入り口は、戸と言う物の設備が無くて、古莚が二枚ぶら下って居たのには驚いたものであった。

 このぶら下った莚を潜って、物置から外へ出ると四米程の所に跳釣瓶の井戸があった。




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 その井戸から右へ五米程行った所に、桂の大木が1本、亭々と、天をを摩して居たが、その根元の近くから井戸の方向に向って同じ桂の大木が根こそぎに倒れて居て既に枯損していた。

 この桂の木を中心にして、南北に四米、東西に十米程の面積が、その根元で直径十糎位の木を頭にした雑木の薮になって居た。

 また、家の表側は道路までそして、その北側が裏の物置の最端線までがこの新居の野菜畑であって、その面積が一反半程あった。

 私達の新居と道路を挾んだ向側に、中村多盛さんと言う老人が、雑貨や荒物の店と旅館を兼業して居た。

 また、その南隣には似湾郵便局の局舎が同じ棟下に併設されて居て、多盛老人の長男で友之進さんと言う五十年配の人が局長さんで あった。