Cameraと散歩

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210814 空襲 お袋と火の海 500メートル

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’21/08/14付讀賣新聞朝刊の記事

戦後76年
 刻む つなぐ


空襲 お袋と火の海 500メートル

俳優 毒蝮三太夫さん 85      


 その夜、当時9歳だった俺はお袋のひさと、焼夷弾で炎を上げる家々を避けつつ、坂道をじりじりと進んだ。
風上を目指したので、すさまじい熱風や火の粉が前から吹きつけ、目が焼けるように痛い。

 「かあちゃん。こんなに苦しいんなら、死んだ方がましだ」ー。俺は叫んだ。

 すると、お袋は声を張り上げて俺をしかった。
「死ぬために逃げてんじゃない。生きるために逃げるんだ」と。
そして、水中メガネを手渡してきた。
プール遊びで愛用していたセルロイドのメガネだ。
目が楽になり、ぐずるのをやめた。
さあ、前進だ。




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 空襲が始まったのは、1945年5月24日の午前1時半ごろ。
俺が住んでいた東京・荏原区(現品川区)などを、500機もの米戦略爆撃機B29が襲ったそうだ。

 空襲警報のサイレンで俺はとびおきた。
シュルシュルと嫌な音とともに焼夷弾が落ちてくる。
バケツリレーに加わったが火勢は増すばかりだ。

 もう逃げるしかない。
お袋は俺の手を引き、高台の空き地を目指した。
距離は500メートルほどだが、長く感じたね。
空き地から見上げた東京の空は真っ赤で、俺の家があったあたりは焼け野原になっていた。
翌朝、煙がくすぶる空襲跡を歩くと、首や手のない死体がごろごろしていた。

 「俺たちは兵隊じゃない。なんで焼夷弾が落っこってくるんだろう」。
そんな気持ちが何度もわいたよ。
昔の戦争は武器を持っている者同士が戦っただろ。
でも、空襲でやっつけられたのは無抵抗の女性や年寄り、子供だ。
卑怯なやり方だなと、子ども心に思ったね。

 年月を経るほどに、「あれは卑劣な殺人だ」との思いが強まっている。
人間は愚かだよ。
あの後も世界のどこかで無残な戦争を続けている。




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拾った革靴 中に足首
「戦後はゼロから。明日はがんばろうという一体感があった」


驚かなかった

 空襲の日にはこんな体験もした。
道路脇に黒い編み上げの革靴が左右そろって落ちていてね。
革靴なんて戦時中の庶民には縁遠い代物だ。
俺が履いていた運動靴はボロボロだったから、「得したな」と思って拾いましたよ。

 でも、何かおかしい。
片方が重たいんだね。
中を見たら切断された足首が残っていた。
地面に振り落として、靴を家に持ち帰りましたよ。
今思うと異常なことだが、周囲には焼死体が転がっている。
防空壕では遺体が折り重なっていた。
だから、足首を見たって驚きませんよ。
きっと同年代の子供だったんでしょう。
俺が履けば、その子の供養になるとも思った。

 8月15日の玉音放送はよく覚えている。
終戦と聞き、「これで空襲とおさらばだ」とうれしかったなあ。




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ウルトラマン

 戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の天下だった。
そのGHQが俺の芸能界入りを後押ししたんだから不思議だよ。
当時、GHQの指令で制作されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が人気を呼んでね。
路上生活をする戦災孤児を描いた話だが、不良化を防ごうと言う、いかにも米国らしい教育的な狙いが込められていた。
中学生の時、舞台化する話が持ち上がり、そのオーディションに受かってね。
全国を巡業して回ったんだ。

 その後も児童劇団に入っていたから、映画に出るようになった。
大学は日本大学芸術学部映画学科。
卒業後は、映画やテレビでチンピラやスポーツマンの端役を演じていた。
週に1度は手錠をかけられていたよ。




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 そんな時、巨大なヒーローが活躍する特撮シリーズに出演する話が舞い込んだ。
1966年7月にスタートした「ウルトラマン」だ。
俺は科学特捜隊のアラシ隊員役。
次のシリーズの「ウルトラセブン」にもウルトラ警備隊のフルハシ隊員として出演した。

 両作品の生みの親である円谷英二さんの代表作が怪獣映画「ゴジラ」だ。
水爆実験で古代生物がすみかを追われたという設定だから、広島、長崎に落とされた核のいわば副産物だよね。
強力な兵器で地球を壊すことへの抗議、反戦のメッセージが込められていた。

 ウルトラマンやセブンの撮影中も、「現実には巨大ヒーローはいない。地球は人間が守らなければいけない」とよく出演者やスタッフに話していましたよ。
実際、特捜隊や警備隊が倒した怪獣も多いよね。




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かまい合い

 ウルトラセブン終了後の69年からはTBSラジオ「ミュージックプレゼント」でパーソナリティーを務めた。
東京近辺のお店や銭湯、介護施設で大勢のお年寄りに囲まれて生中継するんだ。
「ジジイ、ババア、元気か」ってね。
「この辺は空襲がひどかったよな」なんて、戦争の話もよくした。
マムシさん、うちに来て。空襲で亡くなった親戚にお焼香を」と頼まれたこともあった。

 しかし、コロナ禍で、昨年4月から人が集まる場所での中継ができなくなった。
「不要不急」だからね。
今は、TBSのスタジオに足を運んだり、俺の事務所にスタッフを呼んで中継したりしている。




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 俺は敗戦というどん底を味わったけど、コロナ禍での世相には不安を感じる。
戦後の社会は、住む場所も食べるものも、着るものもなくても、「ゼロからみんなで助け合おう。明日はがんばろう、そして笑おう」という一体感があった。

 今は収入が減って大変な方もいるけど、多くの人はモノに囲まれ、お互いに助け合おうという意識が希薄だよね。
戦時中の隣組ってのは負の側面が強調されることが多いが、お互いに面倒をみる、「かまい合う」という良い面があったと俺は思うよ。
かまい合いの精神が欠けているのが、現代日本の一番の問題だ。

 早くつくだ煮みたいに密集したジジイ、ババアの前で、つばきを飛ばしてラジオ中継したいよね。
ああいうのが、平和の象徴なんだろうな。

聞き手・阿部文彦      





211011-210814 6面1空襲死者東京集中

空襲 死者東京に 集中
 全国死者18万人超


 日本本土へのアメリカ軍の本格的な空襲は、太平洋に浮かぶサイパン島陥落後の1944年11月に始まった。
建設省(現国土交通省)調べでは、広島、長崎に投下された原爆や沖縄戦の犠牲者を除き、死者数は全国で18万5000人に上る。
一方、東京大空襲・戦災資料センターの調査は民間人の死者数を20万人超とする。

 特に空中が集中した東京は、死者数が日本の半数を占める。
45年3月10日の東京大空襲焼夷弾で木造家屋が密集する市街地を焼き払い、9万人を超える死者が出た。
毒蝮さんが体験した5月24日の空襲の死者は約500人だったが、規模としては東京大空襲を上回る苛烈さだった。

 このほか、人口が密集する大阪、名古屋、神戸、横浜や、長岡、鹿児島などの地方都市も大きな被害を出した。
艦砲射撃や戦闘機による死者も多い。

 第一次世界大戦後、各国の専門家によりオランダ・ハーグで作成された「空戦規則」は一般市民への空襲を禁止している。
アメリカ軍に限らず、日本軍も日中戦争下、中国で無差別爆撃を繰り返した。
敵の戦意をくじいて自国兵の損耗を防ぐという論理で、銃後の民間人への攻撃を正当化する無差別爆撃は、近代戦の非人間性を象徴している。




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伝える知恵 絞りたい

 お年寄りが1人亡くなるのは記憶の図書館が一つなくなるということだ。
語り部がいなくなるのだからー。
空襲を体験し、ラジオ番組で大勢のお年寄りと接してきた毒蝮さんは、まさにそれを実感している。
終戦時に9歳だった毒蝮さんの世代ももう85歳。
それより10歳以上年上の、実際に前線で戦った世代はもう60万人しかいない。
 気になることがある。
先の大戦への関心が、若い世代ほど低いというのだ。
この記事を読む方の平均年齢はいかほどだろうか。
読むメディア、見るメディア、若者受けするユーチューブでもいい。
伝える知恵を絞りたい。    (安倍 文彦)