200630 香川県編 第三の新居 7の3
履 歴 稿 紫 影子
香川県編
第三の新居 7の3
それは、私が三年生に進級をして三学期に這入った直後のことであった。
その動機については、本人の私自身が、今に何故あんな馬鹿げたことをしでかしたのかと、首をかしげる程に無根拠無理由のものであった。
強いて、その素因を言うならば、当時の私が、その日の体調によって放心状態になってボケて居たのかも知れなかった。
その事件と言うのは、私が学校を1ケ月程サボったことであった。
私の家から学校へは、家の前の道を右へ百米程行くと、外堀の岸に出た。
そしてその外堀の岸を通って入る道をまた右に曲がって三百米程行くと、昔は渡船で往来をして居たので渡場の橋と言われて居たのだが、外堀と海をつないだ運河に架橋されて居たのを渡って行くのであったが、その日の私は右へ曲がるべき岸の道を反対方向の左へ曲ってしまったのであった。
その時の私は、全くの放心状態であったものか、何故左へ曲がったのかと言うことは、今に私は判らないのだが、「オヤッ」と私が気づいた時には、土居の門の橋畔まで来て居た。
「しまった」と私は早速廻れ右をしようとしたのだが、その時西練兵場から、京響と勇ましい喨々と勇ましい行進喇叭が聞こえて来た。
私がその行進喇叭の鳴っている方向へ目を向けると、土居の門から這入って約百米程行った所に在った日露戦争の記念碑の前で歩武堂々と連隊の分列行進が始まって居た。
後年の私は徴兵検査に合格をして、北海道の月寒に在った歩兵二十五連隊の現役兵として在営をした2カ年間は、幾度かこの分列行進に参加をしたものであったが、少年の日のその日私の目に映った分列式の光景は、兵隊さんが揃って肩にした鉄砲の筒先に、ピカ、ピカと光った剣がその煌きを朝の日差に照返して居たのも壮観であったが、勇壮な行進喇叭に歩調を合せて、歩武堂々と行進をする光景が更に一段と壮観であったので、思わず我を忘れた私は、廻れ右をすることを止めて、土居の門の橋を渡ってしまった。
分列行進は、それから1時間程で終ったのだが、未だ興奮から冷めきらなかった私は、これから学校へ行っても、どうせ遅刻したことを先生から叱られるだけのことだと言った不埒考えを起して、それまで私の傍で、私と同じように分列行進を見て燥いで居た学齢未満の幼児と、その練兵場で、いつも学校から帰る時刻になるまで遊んでしまった。
その日の授業を了えて下校した級友達が、堀岸の道を家路へ急ぐ姿が見え始めたので、幼児達に、「ジャまた、あしたな。」と言って別れた私は、何喰わぬ顔で、母の待つ家の玄関から「只今」と、声をかけて元気良く帰ったのであったが、その翌日からの私は、何ものかに魅せられたかのように、堀岸の道を左へ曲って土居の門の橋を渡るようになった。
その日が、何時何時であったかと言うことは記憶に残って居ないのだが、いつものように西練兵場で幼児を相手に遊んだ私が、「只今」と玄関の土間へ駈け込んだ時に、その土間には大人の人が1人立って居て、応対に出た母が敷居越に正座をして、何ごとかを説明して居る所であった。