履 歴 稿 紫 影子
香川県編
亀山城と歩兵12連隊
亀山城は、丸亀市の南端に在って、平地にポッカリと築かれている城であった。
そして小さいながらも、とても形の整った城であった。
明治維新の前には、京極家の居城であったが、その築城は徳川時代の初期に生駒家が築いた城と私は聞いて居るが、その築城は、付近に在った山を崩した全山の土砂を平地へ移して築いた城だと大人の人達から聞かされて居た。
城の頂上には天守閣が残って居て、堀は内堀と呼ばれて居た。
直接城の周囲に廻らされたものと、外堀と言って、内堀との間に広い平地を抱いて廻らされている堀との二つがあったが、その外堀の内側の岸には小高い土手が築かれて居て、其処にはそれが何時の時代であって、何人の手に成ったものかと言うことは判って居ないが、間隔良く生え並んだ老松が、昔を物語顔に枝を張って居た。
城は北向きに築かれて居て、高々と積み重ねた石垣の部分がとても立派に思えた。
内堀の橋を渡って城の門内へ這入ると左側に外部へ通ずる地下道の趾があったが、その地下道は、籠城の際に奇襲その他の戦略に利用をする重要な設備であったと私は聞かされて居た。
また、石垣の上に廻らした白壁の塀には小さな窓が一定の間隔で設けてあったが、この小窓も籠城の際に外敵を鉄砲で射撃をするために設けてあるのだと大人の人達が言って居た。
城の東側は、内堀を越えた所が竹藪になって居て其処には大蛇が棲んで居ると言われて居たが、城山に住んで居る狸や山犬の類は食われるが、人には何も危害を加えないのだと人々は言って居た。
その他の部分には、城山全体に大小の松が鬱蒼と茂っていて頂上の老松には五位鷺が巣喰って居た。
そしてその五位鷺が十数羽の群れとなって2粁程の東方を南北に流れている土器川へ、ギャア、ギャア、ギャアと鳴きながら、月明の空を飛んで餌を漁りに行く情景はとても詩的情緒に富んで居たと生前の父は良く口にして居た。
城内には丸亀連隊区司令部が在って、城の裏側には歩兵12連隊の弾薬庫が在った。
また夜ともなれば、城山に棲んで居る狸が通行人を屡ば騙すと言う噂もあった。
私の城山に関する記憶の一つに”人柱”の伝説があった。
それは、頑迷と無知から生まれた迷信がそうさせたものと思うのだが、往時いずれの築城にも必ず”人柱”と称して人を生埋にしたそうであるが、亀山城の人柱は豆腐屋の孝行息子であって、築城の工事場へ豆腐を売りに来たのを捕えて、むりから生埋にしたと言い伝えられて居た。
私はその真疑の程は知らないのだが、深夜ともなれば「トーフィ、トーフィ」と言う豆腐の売声が、城の何処からともなく聞こえて来ると言う噂もあった。
併しその真実は、老松の梢に葉鳴る風の音であったかも知れないが、深夜の城門を守る歩哨は必ずその売声を聞くそうであって、巷人の多くは、それを真実としてこの伝説を信じて居た。
私の家から亀山城へは、家の前か練兵場へ行く道が、練兵場の北端と私達の住む土居町の南端との境を直線に東西に通じた道とT字路になって居る所を右に曲がって五百米ほど行ったところに外堀があった。
そしてその外堀には水草の菱が青い葉を浮かべて水面一帯を覆って居た。
菱の実は皮をむいて生のまま食べても、一寸渋味はあるのだが相当な味を持って居た。
また、塩味で茹でて食べると一段と味を増すので、葉裏につけた可憐な白い花の季節も過ぎて、やがて結実の頃ともなれば私達少年が採り競ったものであった。
また、小雨降る日には鮒がよく釣れるので、私も兄と二人でしばしば出かけたのだが、釣りの技巧にうとい私達兄弟にはあまり釣れなかった。
外堀の橋を渡ると、岸を廻った土手の内側は練兵場であって、此処を西練兵場と呼んて居た。
外堀の橋から五百米程行くと、左側に城の正門へ渡る橋があって、内堀には水連が緑色の円い葉を所狭しと水面に浮かして居た。
その水連はやがて開花の季節ともなると、紅色、白色の花を咲かせてその優雅の程を競って居た。
私はこの水連の花がとても好きであったので、その季節ともなると、よくこの内堀へ遊びに行ったものであったが、水連の花は早朝の日の出の時刻と、黄昏時が特に美しかった。
外堀の水は東側の北端からが運河になって居て、その水を瀬戸内海へ落として居たので、あまり濁っては居なかったが、内堀の水は幅が一米程の溝を流れて外堀へ落ちて居る程度の言わば、溜水の状態であったから何時も濁って居た。
暁の水連は、紅、白の花を未明の靄にぼかして、風に漂う小波に水面へ浮かせた葉を静かに揺さぶらせて居た。
やがて日の出の陽光が朝靄を追い払うと、それまでぼかされて居た紅白の花が、その鮮やかな色彩に光を添えて私の目を射したものであった。
また、水面に揺れる緑の葉上には小波から掬い上げた水が幾つかの水玉になって、葉の揺れるがままに右に左に転がっては、お互がぶつかり合って大きな一つの玉になったかと思うと、また小さく砕けて、或時は真珠の玉のように、また或時は水銀粒のように砕けた水玉がキラキラと光って右往左転をして居る光景は、少年の私にもとても素晴らしいと思えた。
やがてその日も暮迫って黄昏の時を迎えた内堀には、こうした花や葉揺れの風情は見られなかったが、夕靄に包まれて緑の色を濃くした葉上から、終日戯れて居た水玉の演技が消えると、その葉上へ飛び上がった、二匹、三匹と言った蛙が、様々な音律で鳴いて居た。
また、水面から四米程の高さを堀の水を慕って来るものか、一団となって飛んで居る蚊の群れを、俗にヤンマと呼ばれて居た大蜻蛉が襲いかかって追いまわして居た情景が、徐々に迫る夕闇の中にぼかされて行く水連と共に私は、暁のそれとは対象的であって素晴らしいなと思った。
亀山城は軍が管理をして居たので、一般人は平日の立入を禁止されて居た。
併し祝祭日には解放されたので、私も幾度か頂上まで登ったことがあった。
城の頂上への道は急坂であって幾度も曲がりくねって居た。
そして頂上の天守閣の前にはとても深い井戸があって、其処には危険防止の木柵が施設されて居たが、この井戸は始め平地に掘ったものに、築城の土盛りが高くなるのにつれて次々と石枠を組んだものだと言われて居たが、少年の私は誰が汲んだのか知らないが、こんな深い井戸から水を汲むのでは、さぞかし大変であったろうなと思って居た。
また、その井戸の底には、築城の人柱にされた豆腐屋と同じように石工が一人生埋にされて居ると言う伝説があった。
海抜70米と言われて居た城山の頂上に立って、正門の在る北側を遙か見降すと海岸線まで続いて居る市内の家並みが、老松の梢に浮かんで見えた。
また、海岸線にある港の出船入船が、白帆にかぜをはらませて悠々と小公園になって居る出島の松の梢に乗って滑って居るかのように見えるのも素晴らしかったが、対岸の岡山・広島の両県との間に点在して居る瀬戸内海の島々を行きかう、真帆や片帆の間を忙しそうに追い抜いて行く汽船の黒煙が、緑一色の島と島とを繋ぎ合わせたようにたな引いて居る風景も私はとても素晴らしいと思った。
海岸線は、東が宇多津の塩田まで、そして西は海水浴場のある塩屋の海岸から多度津の港近くまでが、一望の視界に在って磯に漁どる磯舟が畳を敷いたような海面に漂って居る風景も飽かぬ眺めで在った。
また、城の頂上から目を南に転ずると、春夏秋冬と言った季節ごとに、青、緑、黄と言ったように色彩を変える田園の中に白壁の家が点々と浮き出たように見えるのも長閑な風景だなと私は思ったものであった。
城の頂上から見た西南方の平野は、金比羅さんで有名な象頭山の麓につきて居るのだが、その象頭山からは可成り前方に在る善通寺の五重の塔が恰もその山麓に在るかのように見えた。
また東南方の遙か彼方には、飯野山が、その頂に雪こそ置かないが、讃岐富士の名に恥じない山容をこちらに向けて居た。
私はこうした頂上からの素晴らしい眺望に憧憬を抱いて居たので、一般人に解放をされる祝祭日には、終日頂上で遊んだものであったが、そうした私がその城山で一度こんなことに遭遇したことがあった。
その祭日が何と言う祭日であったかと言うことは記憶に残って居ないのだが、私が頂上へ登った時には、遠近の空に白雲が飛んでいたのではあったが、太陽はその白雲を見送ってはさんさんとして下界を照らして居た。
併し、何時ものように私が四方の素晴らしい眺望に時を忘れて居ると、一天俄にと言った表現が適切であるかも知れないが、俄に黒雲が覆った空からは夕立が降って来た。
現在でも香川県では同じ現象であると思うが、夕立につきものの雷が鳴り始めた。
南国の香川県としては、雷鳴と言うことがさして珍しくないので、その雷鳴には驚かなかった私ではあったが、沛然と降りしきる夕立を、雨宿る所の無い城山であったので、急いで坂を駈け降ったものであった。
それは、私が坂の中程にさしかかった時のことであっのだが、その一瞬、真白の光を周辺に放った雷光に、思わず目をつむった途端のことであったが、百雷が一時に落ちると言う形容に当てはまるかどうかは知らないが、その直後まだ嘗て経験のないとても強烈な音響に吃驚をした私は泥水が流れて居た坂道へ耳を覆って身を伏せたものであった。
そうした激しい雷光と雷鳴によって、或いは一時失心して居たのかも知れないが、私が起きあがった時には既に夕立は止んで、空にはさんとして太陽が輝いて居て、その陽射しが老松群の葉裏を縫って居た。
それは恰も夢から醒めたような気持であった私が、茫然と四辺を見廻すと未だ起きあがらない人が可成あった。
私をのけぞる程に吃驚させたのは、自分が慌てて駈け降った道を何気なく振返った時であった。
それは私が俯伏て居た所から十米程上がった所で大きく枝を張って城と風雪を共にして来た老松が、物の美事に真二つに裂けて居たことであった。
南国の香川県としては、さして珍しくない落雷ではあったが、直接身近に見たのはこの時が初めてでもあり、また終わりでもあった。