履 歴 稿 紫 影子
香川県編
第三の新居 7の1
第三の新居に引越したのは、第二の家へ引越した年と同じ年の8月中のことであったと思う。
当時私の通学をして居た城北尋常小学校の暑中休暇は、8月の1日から末日の31日までであったのだが、その暑中休暇中の引っ越しであったように私は記憶をして居る。
引越しをするべく、荷物を取纒て居た午前中には、猛烈な夕立があったのだが、その夕立が止んだ昼下がりから、私の家は引越したのであった。
私達の引越した第三の新居は、第二の家からは約1粁程の所に在った、そして第一の家とは指呼の間に在った。
私達の住んだ土居町と言う所は、明治の維新前には武家屋敷の町であったらしく、第一第二と言った家も、そして第三の家も、共に揃って武士が住んだ家であったようであった。
併し第三の新居は、その武家屋敷を改造した家であったので、その当時としては、近代味豊かな構造であったのを、私達は珍しがったものであった。
第三の家の軒続きの家は、嘗て私達が住んで居た第二の家と同じ構造の家々であった。
したがって、その家々は、道路に面した表側には門を構えて居て、その門と隣の門の間は白壁の土塀によって繋がって居た。
しかし、そうした武家屋敷の最東端の家を改築したものであったから、私達の新居には門は無かった。
そして往年は町民達に誇ったであろう白壁の塀もなかった。
したがって、古い時代の栄枯を物語りそうな土塀は私達の新居の西端につきて居た。
第三の新居の構造は、玄関の土間は此処でも一坪しかなかったが、其処にはコンクリートを打ってあった。
玄関の土間へ這入った正面は、白壁であって、その蔭にあった四畳間の境になって居た。
土間の右側の障子を開けると、其処が六畳間になって居て、その部屋の表に面した側には、外側は格子造りであったが一間の出窓があった。
また、この家の座敷は八畳間であってその六畳間の左に
座敷の左隣りには、玄関の土間とは壁を境にした細長い四畳間があって、その四畳間の奥が台所、そしてその台所に勝手口が在って一坪の土間があった。
そして座敷には縁側があって、その縁側から三坪程の地積が、若松や紅葉の植った庭になっていて、その後には板の外塀が廻らしてあった。
私達のこの第三の新居と西隣の家とは、板の塀で仕切られて居て、その塀までの間隔は四米程であった。
また、この新居の西端まで続いている白壁の土塀にあった三尺の切戸を這入ってから、四米程行った所であって、隣との板塀からは一米程離れたところに一本の棕櫚の木があって、その真下に露天の井戸があったのだが、その井戸も、第一、第二の家のそれと同じように、飲料不適の水であったので、私の家は此処でも有料の水を使った。