履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編 村の秋祭 9の9
舞台は六畳の客室を三部屋通した正面に設けられて居て、純白の絹地に浪曲師の紋所と思われる大きな絵紋を挑んで、その向かって右下に贈呈主の住所と姓名を何処の何某よりと、そして左側の上から浪曲師の芸名を、京山何某𠀋へと染め抜いた布を掛けたテーブルを前にした浪曲師が、その夜の演題であった水戸黄門の諸国漫遊記が、一席読み終わるところであった。
浪曲師は、只一人の京山某が長講三席を熱演したものであったが、最後の一席を終って十分程の息抜きをした間合に、旅館の主人が円形の盆をもって客と客との間を縫って廻って来た。(その当時、似湾のような田舎では、こうした演芸に木戸銭と言う物を取らなかったので、その中途で盆を廻しては、客の心付けを集めて居た。)
私達は家を出る時に母が、「これは今夜の木戸銭。」と言って、兄に五銭の白銅貨(併し、此の時の兄は私は良いからと辞退をして受取らなかったが)、そして私と保君には二銭の銅貨を一枚づつくれたのを、兄は自弁で五銭を、そして私達はその二銭を、廻って来た盆の中へ投げ込んだ。
現今では、どんな田舎へ行っても、テレビやラジオと言った物が普及されて居るので、娯楽演芸と言う物に関する知識が一般的に大きく発達したので、そうした物に批判的な知識を持って居るが、その当時の似湾と言う所では、丁度朝顔の花に似た大きい喇叭がついて居た蓄音機が、山岸さんの店に只の一台きりと言う時代であったから、和人の先軀者達が入植して以来、既に二十有余年を経過して居た村ではあっても、娯楽演芸と言う物が、自分達の日常生活に裨益をするものか、それとも泡沫的なその場限りのものか、と言うことを自ら判断をしようともしなかったので、浪曲師の流派等と言ったことには全然拘泥をしなかった。そして、その夜その時が面白ければ良かったのであった。
従って、村の人達は今日はお盆、今日はお祭だからといっては、近所隣りが誘い合って浪曲を聞くと言うことが、唯一の慰安であったかのように、現在の私は想像をして居る。
そうした状態にあったのだから、それが奈良丸の節であろうと、桃中軒の節であろうと、一向に無頓着であったようであった。
その夜の京山某と言う浪曲師は、私達が此の似湾へ移住する以前から、その芸に対する真面目さを村の人達から高く評価をされて居る芸人なんだと、保君が言ったのだが、その夜も顔の汗を拭き拭き懸命に熱演をして居た。
やがて拍手の裡に浪曲が終ったので、私達は表へ出た。
「義章、お前は朝晩ほんとに辛いだろうがなあ、俺は頼む、どうかご飯運びやってくれよなあ。」と言った兄は、「さあ、保君帰るぞ。」と、保君を連れて郵便局の方向へ歩いて行く兄を見送る私の頰を、何故か涙が濡した。


